たばこ塩産業 塩事業版  2000.05.25

塩なんでもQ&A

(財)ソルト・サイエンス研究財団専務理事

橋本壽夫

 

Salt 2000

Salt: life depends on it ─ 塩:(生活)の基

 

 国際塩シンポジウムは北オハイオ地質協会の主催で1962年にアメリカのクリーブランドで第一回が開催された。地球物理・化学、地質・構造、岩塩乾式・溶解採鉱、蒸発製塩などに関する研究・技術開発の発表を通して情報交換、産業の発展に寄与する目的であった。以来、回を重ねるごとに参加組織も多くなり、第七回は1992年の4月、桜の花が満開の京都国際会議場でソルト・サイエンス研究財団が主催、日本たばこ塩専売事業本部が全面的に後援して行われた。その折りフェアーウエル・パーティで、次回の引受者であるヨーロッパ塩研究会会長のビアーマン(当時アクゾ製塩会社塩製品担当重役)は「21世紀にならないまでにオランダでチューリップの咲く頃、次回を行う」と発表。京都では、あまりにも見事な桜の花に囲まれた印象深い大会であったので、以後京都大会と呼ぶことになった。
 その第8回シンポジウムが5月7日から11日までの5日間、ハーグ市のオランダ・コングレス・センターで開催された。日本からは同伴者を含め70人以上が参加。全体の参加者は1,050人ほどで、5日間の全期間登録者が750人、1日参加登録者が300人と言うことであった。参加者の国別ベスト5は、ドイツ127人、アメリカ108人、オランダ76人、日本68人、フランス46人。口頭発表(20分間発表、10分間質疑応答)が181件、ポスター発表が108(11件は口頭発表も行われた)であり、大変な盛会であった。論文集には199件の論文と61件の論文要約が収録されている。筆者は京都大会を運営した一人として今回も科学プログラム助言委員会の一員に加えられ、発表もしてきたので印象を記す。 

ソルト・サイエンスも全面協力

 8年振りの開催で、この間、開催事務局に前回の記録試料を渡し、経験をできるだけ多く伝えて協力。事務局はオランダの製塩会社アクゾ・ノーベルにおかれた。経験者としてソルト・サイエンス研究財団は組織委員会、科学プログラム委員会に助言者の立場で関与し、組織委員会や科学プログラム委員会の議事録が送られてくると、その都度意見を述べてきた。150-200件の発表論文が集まれば思っていたところ340件を越す予想外の発表論文が集まり、処理に支障を来すと考えたのか発表者に対する対応が突然変わった。論文発表者に対する指示連絡が悪く、かなりの不安を持って参加したのではないかと思われた。幸いにもアクゾ・ノーベル社が東京にあり、連絡担当者がいたので、その人を通して問題を解決することができた。
  
通常、こんなすばらしい発表内容があるので是非参加してもらいたい、との最終勧誘案内が来るのであるが、どんな発表があるのか早期割引参加登録の締切時にはわからないという異常事態でもあった。その後ホームページにプログラムが掲載された。
 5月始めのハーグは、朝は冷えるが、日中はTシャツ一枚でちょうど良いくらいの意外な暑さ。スキポール空港からハーグに向かう列車から時々遠くにチューリップの花が見られたが、多くは花が刈り取られた後で、チューリップの咲き乱れるオランダという感じはなく失望。しかし、キューケンホフ公園に行くとさすがに数限りない種類のチューリップやクロッカス、ヒヤシンス、水仙、つつじ、シャクナゲ、八重桜などが咲き乱れ、花の時期を感じさせられた。でも会場近くにはお花畑はなく、鮮やかな新緑が目立つぐらいで寂しい感じであった。

ホスピタリティでは???

 7日(日曜日)の午後から登録受付。一時はかなり混雑し、手際も悪く、コングレスキットに一式全部が入っていないものもあったようである。別の所で2分冊になった重いプロシーディングス(4.26 kgあり京都大会より50 g重い)を受け取り、これまた重い(330 g)ブロンズ製の舌の先に一粒の塩を付けた置物(「舌先の一粒の塩は最高の旨味を与える」との解説付き。帰国して見ると塩粒は取れてなくなっていた)の記念品もあり、参加者全員にこんな重い物を持って帰らせるのか思った。事務局はこれで輸送費が節約できたと言っていたが、ホスピタリティの点からはいかがなものであろうか。スイス人から「あなたは科学プログラム助言委員であるのに、どうして一枚のCDにするように言わなかったのか」と責められた。
 ともかく近くのホテルに荷物を持って一度引き上げ、あらためてウェルカム・パーティーのために出直した。パーティーは地下の会場で行われた。運河に架かる跳ね橋をあしらった入口を入り、適当な位置のテーブルに陣取ってバイキング・スタイルで料理を取ってきては食べるのであるが、再会と新しい出会いを喜び合うパーティーであるため特段の歓迎挨拶もなく、食べるだけ食べ、飲むだけ飲んだら三々五々の流れ解散。日本人にとってはなんとなく締まりのないパーティーであった。これが西洋流である。筆者は京都シンポジウム以来の顔を求めてテーブルからテーブルを回り、入り口近くのテーブルに陣取り先ずは再会の挨拶をすませ喜びあった。
 翌日は11時から開会式であったが、時間どおりに始まるわけでもなく、これまた機が熟するまで、なんとなくザワザワとした様子で待ち続けた感じ。ドライアイスの煙で演出しながら開会式が始まった。大会委員長を始めユニセフ代表他何人かの挨拶や塩の結晶を舞台装置に使ったアクロバチック・ダンスやバグパイプと太鼓の演奏などの出し物があったが、会期が終わってみれば印象の薄い開会式であった。

主テーマは「ヨード欠乏症撲滅」

 今回のシンポジウム・テーマはSalt: life depends on it.(「塩:生命(生活)の基」)である。大きな特徴は健康問題としてヨード欠乏症撲滅運動を大きく取り上げたことである。この問題は京都大会で初めて取り上げられた。当時、世界で10億人がヨード欠乏症の危機にあると言われていた。今回は15億人(中国、インド、ロシア、東欧、アフリカ、南アメリカなどに多い)に増加。ヨード欠乏症は新生児、乳児期ではクレチン病(精神薄弱、成長阻害、知能障害などを起こす)、大人では甲状腺腫を起こす恐ろしい病気である。ヨード添加塩を食べさせることにより完全に予防できるので、2000年までに撲滅しようとユニセフが1990年に撲滅運動を提唱し、今ではWHO、キワニスを始め世界銀行や数カ国(日本も含む)が財政支援している。製塩業界の協力がぜひとも必要であり、オランダ国もアクゾ・ノーベル社ともども力を入れているので、毎日、この問題を取り扱うセッションが設定された。このためユニセフを始めとする国際機関、先進国や発展途上国、低開発国の政府関係者、保健関係者、製塩関係者が多く集まってきた。この関係で参加者も多く、参加国も86ヶ国にのぼった。その反面、京都大会で大々的に取り上げた塩と生理や高血圧に関する健康問題は大幅に縮小された。

 発表は塩資源と塩鉱床、溶解採鉱、塩生産、分析と加工、市場と用途、新用途、環境、ヨード欠乏症撲滅用のヨード添加塩、歴史の9つのセクションに分かれて同時並行で行われた。またポスター発表も2回に分かれて議論できるようにされていた。他に全員が参加できるプレナリーセッションとしてヨード欠乏症撲滅用のヨード添加塩と食塩摂取量および保健問題があった。食塩摂取量の問題は時間配分が悪く、質疑応答の時間が少なくて期待はずれの結果に終わった。プレナリーと開会式は日本語で同時通訳された。しかし、通訳二人の内の一人は全く下手で、語尾を絶えず延ばすので時間足らずになり、聞き苦しい上に端折った訳で理解できなかった。
 公式言語は英語であった。しかし、ヨード欠乏症関係の発表では通訳にOHPでスライドを写させながら、演者は中国語で発表し英訳させる発表があるかと思えば、英語で発表した後の質疑応答で、会場からロシア語で意見を述べるとそれを演者が英語に直して聴衆に説明するというとんでもない講演があり、あまりに長く続くのでたまりかねて座長が注意しても、お構いなく続け質疑応答にならなかったものもあった。
  日本海水学会が発表者を大量に送り込んだので、日本からの発表は塩事業センターその他の発表も加えて、全部で37件になった。プレナリー、ヨード欠乏症、岩塩、溶解採鉱、歴史のセクションは、天井が高く、冷房も利き、広い会場が割り当てられたが、他のセクションは天井の低い会議室で、狭い上に暑く、出入りも不自由を感じる気の毒な会場であった。筆者が発表した会場は食品添加物の国際規格(食用塩の国際規格を含む)を検討するために毎年使われるところで、これまでに2回出席したことがあり大変懐かしく、高い壇上で発表することに感激した。座長はヨーロッパ塩生産者協会の事務局長とアメリカ塩協会の理事長(写真の太っている方)で、二人とも京都大会以来大変良く知っており、普段から絶えず情報交換もしているので、筆者の低い英会話能力を知っていることから安心して発表できた。  発表内容は、1997年に5年間の経過期間をもって廃止された塩専売制度の中で行われてきた研究開発の歴史であった。塩専売制度がなくなった日本市場にいろいろな国が関心を持っている様子であった。

次回は2010年までに米国で

 ウエルカム・パーティについては先に述べた。市長レセプションは市の中心街にあるタウン・ホールで行われた。東京駅前の国際フォーラムのような高いガラス張りの天井の下で、座るもよし立つもよし、好きな飲み物、食べ物を食べながら自由に親睦を深める会であった。この時、かっぱ巻きやしんこ巻きの巻きずしが振る舞われたが、大層な人気であった。
 ガラ・ディナーにはダーク・スーツで出席するように要請され、ご婦人方は着飾って出席。15世紀に市の中心街に立てられた古い由緒あるセント・ヤコブ教会が会場と言うひと味違った趣向でフランス料理を振る舞われた。古い教会にしてはステンドグラスが非常に少なく、祭壇もなく真っ白で単調な柱は非常に奇妙な感じを与えた。このような使い方は初めてのことだそうだが、750人も丸テーブルに着席すると会場は狭く、飲み物を運んでいたウエイターがお盆をひっくり返し、幸い頭からではなかったが背中に飲み物を降りかけられる御難にあった人はせっかくの晴れ着が台無し。舞台前のテーブルは要人に指定されていたが、後は自由で早い者勝ち。割合前の方に席を占めることができた。女性がコミカルな振り付けで歌を唄い、話を進めたが、内容は塩をテーマにして展開するなかなか高度なアイディアものであった。最後に俳優ロジャー・ムーアの挨拶があり、ヨード欠乏症撲滅運動やユニセフの募金活動などの話をえんえんといつ果てるともなく述べ、盛り上がりを欠き一部白けた感じになってしまったのは残念であった。ディナーは7時半から12時近くまであり、ワインの飲み過ぎで翌日は二日酔いの頭痛に悩まされ、午後の発表を控えて深く後悔した。
  フェアーウエル・パーティは階段を上がった二階の通路を兼ねた広場(ロビーのようなところ)で行われた。中央が階段のため広い空間となってまとまりがなく、これも会場費の経費節約策かとも思われた。京都大会では庭に出て池の周りやそこかしこで盛んに記念撮影をし、お別れを惜しんで再会を期したが、今回はそのような風情はなかった。何事もこれがオランダ流かと思われた。
  このパーティで、次回はアメリカで2010年までに行うことが発表された。次期と場所はこれから決めるとのことであった。事前にそのことについて当事者と話し合った時、そんなに先であれば協力してあげようにも筆者は退職していないよ、といったところ自分もいないだろう大笑いになった。
 ともかく時代は次に移った。