そるえんす、1992, No.13, 11〜38

座談会

 

「第7回国際塩シンポジウムを振り返って」

 

 7回国際塩シンポジウムは、当財団主催で本年46日から9日までの4日間にわたって、京都の国立京都国際会館で開催されました。
 本大会は、第1回大会が1962年にアメリカのクリーブランドで開催されてから今年で丁度30年目に当たります。また、アジアで初めて開催されたこの大会には35カ国から600余名の塩関係者が参加し国際交流が深められました。そこで、過日、大会運営にあたられた方および大会に参加された方のなかから次の方々にお集まり願って、準備、開催の総括、今後への期待などを語っていただきました。なお出席者の役職名は収録時のものです。

 

日本開催決定と開催準備

4年前に決意

── 欧米から強い要請 ──

 司会 ご多忙な中を座談会にご参加いただき、有難うございます。ではまず大会の開催前の、日本の開催がどうやって決まったのかということから始めたいと思います。これはご存じの方が少ないかと思いますが、山中社長は前回1983年のトロントの大会に出席されましたが、その大会はどのような状況だったのでしょうか。

 山中 この中で、前回の大会に出席したのは私と、野崎社長だと思います。最後のパーティーのときに主催者側のあいさつはあったのですが、その時には次回の開催地は、はっきりしていなかったように思います。
 ただ会期中に、ドムタールケミカル社の塩部門で、シフト・ソルト社の岩塩坑を見に行きました時に、そこの社長か事務部長と一緒に食事をしました。ドムタール社はトロント大会の開催で陰の力になったところだと思いますが、その人が、次回の場所がなかなか決まらないんだけれども、日本からは今回14人も参加しているし、発表も5件もあったので、1回日本でやったらどうだという冗談まじりの話はありました。私はとてもじゃないけどそんなことできるわけないですよという話をした記憶はあります。
 そんなことでトロント大会では、はっきり決められずに終わったと思っております。
 司会 野崎社長、何かお聞きにはなりませんでしたか。

 野崎 いま山中社長がおっしゃったとおりだと思います。特につけ加えることはありません。
 司会 それで具体的に開催を頼まれたのは、どこからだったんですか。
 橋本 もう5年前になるのですが、アメリカのソルト・インスティテュート(SI)のハンネマン理事長が、中国に出張する途中で、成田空港から塩工業会宛に訪問の手紙を出したのです。
 それには海水学会の出版物のことについて書いてありました。それを前囿さんが私のところに持ってこられましたので、私も一緒に聞かせてもらいましょうかということで工業会に行きました。たぶん梅雨どきだったと思いますが、雨が降っていました。それで工業会の部屋で持ち出された話が、シンポジウムをやってくれないか、シンポジウムを知っているかという話でした。それは知っていますが、とてもじゃないができませんと、私としては断りました。ではシンポジウムをする時には参加してくれるかということだったから、それは参加しますという話をしたんです。
 司会 それが前囿副会長とハンネマンご夫妻との出会いだったのですね。
 前囿 そうです。SIのミスターハンネマンから手紙が釆たんです。それはアメリカから投函されて日本に来た手紙ではなくて、日本の成田の郵便局の消印があるんです。そのへんの感覚がよく分からなかったんですが、中を見たら、中国へこれから行く。帰りに日本に寄って、日本の塩業者の方と合って同業者としての意見交換をしてみたいということで、都合を聞くということではないんです。俺は帰りにお前さんの所に寄るから通告するよというような、(笑)大変失礼な手紙だなと思ったんです。だって成田で投函した手紙に対して、返事のしようがない。

 そこで橋本さんに、こういう手紙が来ている、ひょっとしたら来るかもしれないから、橋本さんは通訳代わりで、ひとつ一緒に入ってやってくださいという話をしました。
 そうしたらやって来ました。来た時がまた面白くて、飯田橋の銀行の人から電話があって、アメリカの塩協会のこういう人が、塩工業会を訪ねて行きたい、どう行ったらいいかと聞いているというわけです。それで工業会の場所を教えたのですが、こちらは顔を見たこともないし、それらしいアメリカ人が来たらつかまえようということで待っていたんです。それで来たのがミスターハンネマンとの出会いです。
 そうしたら、奥さんを連れてきているんです。やっぱりアメリカ人というのは大したものだと思いました。そしていま橋本さんが言ったようなことで、世界の塩シンポジウムがある、それを知っているかという話でした。橋本さんは知っておられました。私も多少は知っていましたが、日本でやらないかという話で、私達は英語も喋れないし、世界の人を集めて日本語でやるわけにもいかない。それはとてもじゃないという感じで、橋本さんがとても駄目だよと言ってくれたんです。とは言っても折角来たんだからというので、中華料理で昼飯でも食べるかという提案を、これは英語でしました。そうしたらOKというわけで、橋本さんと一緒に、4人で食事をしました。そのあとは橋本さんがまた親切に、午後たばこと塩の博物館に案内しようということになり、私は午後用事があったので、そこで別れたんです。
 それからしばらくして、今度はアメリカからお礼の手紙が来ました。大変お世話になった、ついては
SIレポートを会員に配っているから、今度リストの中に名前を入れておいたということで、それからず
っと
SIレポートを無料で送ってくれています。アメリカ人というのは大変奇特な人間だなと思った。そんなところが始まりです。
 橋本 それで、その問題はけりがついたと思っていたんですが、暫くしてから私の記憶ではそのあとだったと思うのですが、当時の枝吉部長のところに、シンポジウムを引き受けて欲しいという話がヨーロッパのアクゾ社の出先機関から来ていると言われました。そんなものとんでもありませんという話をしたように思います。
 その後1988年の2月に、アクゾ社のド・ボルデスさんが来ました。この方はヨーロッパの塩研究委員
会(
ECSS)の会長もされていたのですが、毎年2月に開催されるSIの年会に出席する途中に私どもの会社に来まして、シンポジウムを引き受けてくれないか、非常に困っていると言われました。枝吉部長の話をお聞きしたところでは、制度間題などいろいろな話の先行きがまだ見えていないなかで、とてもじゃないがそんなことを引き受けるわけにいかないということで、最初は部長のほうも断っていたように思います。
 しかし、1988年の2月のこの時点では、ソルト・サイエンス研究財団が大体3月末にはできるという見通しが立っていましたし、それから4月にはJTの組織改正で、海水総合研究所(海水総研)ができるということも決まっていましたので、私の方に部長から、少し前向きに検討するように言われたのがそもそもの始まりで、それからこれまでの第6回目の記録なども見まして、少しずつ検討を始めたということです。ですから1988年の2月が、初めてやろうということが決まったポイントのところです。ド・ボルデスという非常に温厚な紳士がわざわざわが社に訪ねてきたことがきっかけで、枝吉部長が決心され、私にご下命があったように思います。

 

国際交流の契機に

── 初期段階から活発に始動 ──

 司会 それでいよいよ準備に取りかかるわけですね。その後準備、開催、そして現在と、JT主導で進めて来られたわけですが、現在の責任者でいらっしゃる田村部長から、JTの中ではどのように受け止めて取り組まれたのか、お話しいただければと思います。
 田村 いずれにしろわが社は、専売制ということが大きな理由かもしれませんが、比較的外国とは没交渉でずっとやってきたんです。日本の塩の消費量の85%は輸入しているのですが、その割りには外国とはほとんど没交渉できている。世界各国の塩事情には必ずしも通じていないし、外国の塩業界の人々と、特段のパイプを持っている人も居ない状態であったと言えると思います。
 そういう中で、外国からかなり大勢の方を日本に来ていただいて、シンポジウムなどをやるというのは、わが社の土壌から言えば大変抵抗が大きいし、一種のアレルギー反応があったと思います。
 いずれにしても国際シンポジウムなんて初めての体験ですし、ある意味では自信なさそうにスタートしたんだと思います。基本的なところから、いろいろ勉強していかなければいけない。だから実際に初期のころは、ずいぶん戸惑ったのではないかと思います。特にわが社と財団だけではなくて、塩の関係業界、あるいは関係の学会などの方々、皆さんあげてご協力いただきながらやっていかなければいけないことになる。学会のほうは国際会議などに慣れているかもしれないけれども、正直言って業界のほうは、外国についての知識が深いとは多分言えないと思うんです。そういう意味では業界の方も、どのようにしたらいいか戸惑われたというのが実情ではなかったかと思います。
 いずれにせよわが社が主導でやっていくということで考えざるを得ないでしょうから、わが社の中にそれなりに一つの組織を作りまして、準備体制を整えなければいけないのではないかということで、いま橋本調査役から話がありましたような時期以降から、少しずつ人を集めて準備を始めました。業界にも呼びかけ、学会にも協力をお願いしながら、幸い時間は充分にあったのですが、出だしは大変不安なスタートだったのはないかと思います。

 ただ私達が感じましたのは、シンポジウムを契機としてわが社の中で外国に対する関心が大変高まってきた。やはり外国に目を向けなければいけないのではないか。ある意味ではそういう意識でいろいろ情報も集めましたし、そういう意識で外国にも人をやったということがありまして、シンポジウムを一つの契機にして、わが社ばかりでなく業界全体の体質が、開催前の段階で少しずつ動いてきたと思います。
 例えば塩工業会さんではある程度組織的に、定期的に社長さん方が欧米の視察に行かれまして、欧米の塩業者の状況をつぶさに見てこられるということを始められました。シンポジウムが直接の契機になったかどうかは分かりませんが、頭の中にはそういうものも意識としてあったのではないかと思います。そして今までほとんど知らなかったような外国の情勢みたいなものが、かなり頭の中に入ってくるような状況になってきて、かなり業界全体としての一種の体質改善が動いてきたような気がいたします。
 司会 いま部長からお話がありましたが、業界として今までは没交渉に近い土壌の中で、どういう準備の進め方をなさったのでしょうか。
 前囿 これは、今ここにおられる柏村さんが、1988年にシンポジウムをやろうという方針が決まってから半年くらい後の1989年頃に、折角日本で国際シンポジウムをやるのなら、その前に外国の塩業者と日本の塩工業会と直接会ってものが言えるという関係を作っておかないと、まずいのではないかという提案をされたんです。
 私は新しいことにはすぐ飛びつくほうで、それはそうですなと言っていたのですが、外国との文通が得意でないこともあって、柏村さんの提案に対してあまりアクションをとっていなかったんです。
 そうしたらそのあと、あれは1989年の暮だったでしょうか、ドクター尾方がうちへ来まして、それをきっかけにして、理事会でいろいろ相談をしたりして、ではまず行くのならヨーロッパかなということになったんです。
 1990年に、まずヨーロッパに行こうということで、塩田とソリューションマイニング(岩塩の溶解採鉱)と岩塩坑の3タイプくらいは見なくてはいけない。ヨーロッパに行ったら、今度はアメリカにも行かなくてはいけないな、アメリカに行ったら、今度はオーストラリアに行くとだいたい一回りするな、という雰囲気ができた。そういう刺激を与えたのは柏村さんだし、それを受け止めて行動を起こすきっかけになったのはドクター尾方さんです。
 もともと自立化は早く達成しなければいけない。自立化というのは、輸入塩に対して競争力をつけるということで、輸入塩を日本に持ってきた場合にはこれくらいの値段になる。それくらいの値段は日本の製塩メーカーは克服しておかなければいけないということで、もっとはるかに前から輸入塩の国内価格を想定して目標価格を作って、それに向けてどんどん値段を下げるという価格政策を使って自立化をしようということをやっていたんです。
 だから輸入塩に対しては、競争相手としての目標価格という形で私達も付き合いをしていたけれども、輸入塩を作って売っている海外の塩業者とはあまり顔を合わせたこともないし、交流したこともない。やはり自立化を本当に達成していくには、ただ「物」としての輸入塩と付き合っているだけではいけない。実際にそれを生産し、供給をしている人達と、じかに付き合わなければいけないということを、柏村さんあたりが指摘されて、皆さんもそれはそうだ、是非やらなくてはいけない。金もかかるが、それは是非やろうということで、理事会全員一致した。シンポジウムを有効にするためにも予め交流をして、シンポジウムで「初めまして。」と言って名刺交換をするようではみっともないから、会場では、おお、やあやあというくらいにしておこうじゃないかという空気が盛り上がったという経過です。
 司会 柏村会長は、別のお仕事で国際交流という意味ではご経験が豊富で、チリでのご勤務があったと伺っておりますが。

 柏村 その前にちょっと。実は今日のこの座談会に出るように言われたおりに、大変尻込みをしたんです。それは、出られる方を見ますと皆さん大変国際派で、しかも塩の海外にルートを持っておられる方ばかりで、今前囿さんから言っていただきましたけれども、私は実は、いろいろ言うことは言ったのですが、実際には行っていないんです。塩の国際会議にも出たことがないものですから、これは困ったなと思っておりました。
 しかしよく考えてみますと、このシンポジウムに出られた相当数の方は、私も含めておそらく塩についてはあまり国際的なご経験のない方と思いまして、それでは私が出席してお話をしても、多数派を代表するかな、(笑)と思って今日は出てきたんです。
 それで海外に対する意識のことでお話ししますと、崎戸製塩はご承知のように佐世保の郊外にありまして、海の外にあるから海外なんです。(笑)ところが田村部長からもお話がありましたが、うちのほうもこれからは大いに海外との交流を深めて、海外センスを磨かないと生きていけないと言いながら、場所だけ海外で、あまり馴染みがなかったんです。
 それで以前からですが、専売のほうでご指導をいただいております海外の研修がありますね。あれには私のほうは、特にランクにこだわらず若い者をどんどん参加させております。これは、海外経験を身につけますと、体の中に財産が入るわけですから、費用はかかっても、長い間にわたって会社に返してもらえるという考えで、大いに若い者を出そうということです。今回もシンポジウムには、現場から若い者を大いに参加させてもらいました。
 そして海外視察に行った者を含めて、勉強したことを全部レポートで出してもらっているんです。それを見ると、崎戸の佐世保の海外でなくて、地球上の海外との接触で、目を丸くして非常に勉強になったようです。特に、オーストラリアやメキシコの塩田を目で見て来た者も、今度のシンポジウムに出席して、いろいろ学術報告を聞いて、感じたことが多かったようです。私自身は前囿さんに叱られますが、海外視察に参加できませんでしたので、初めて名刺を交換するようでは駄目だとお叱りを受けた、その人間の1人です。(笑)

 

学会も応援体制

── 論文集めの期待と不安 ──

 司会 大矢先生は先週、海水学会の会長におなりになったばかりですが、学会の方の取り組みは。
 大矢 やはり1988年くらいでしょうか、その頃は枝吉さんが副会長だったんでしょうね。日本で開催することに決めたという話が理事会で出たように記憶しています。海水学会の名誉会員の杉先生とか垣花先生とか、そういう先生方が基本的にいろいろなお知恵をお出しになってやるんだろうということで、海水学会としては全面的に応援をすることになりました。

 それから海水学会では、水の方の関係で1977年に1回、脱塩の国際会議を協賛しています。塩のほうは海水学会としては初めてなので、できるだけの能力を結集して、ということでした。
 それから海水学会は海水学会誌が一つのメインですから、海水学会誌を通していろいろ会告を出す。それからプログラムを出す。終わりましたら、ぜひ記録の記事も出してもらおうということです。準備の方としては先生方を参謀役というか、相談役にお願いした。そんなところかと思います。
 司会 先生は、国際学会に経験豊富でいらっしゃいますが、この国際塩シンポジウムのように、業界の交流の場という性格も持っている会合についてはいかがでしょうか。
 大矢 私は塩屋ではないものですから、今回は知り合いが少なかったのですが、学会へ行きますと大体半分くらいは顔を知っているというケースが多いんです。脱塩の会議などでも同じことです。
 脱塩の会議も、やはり業界の会議に近いと申考えいただいていいと思います。ただ脱塩の会議は少しニュアンスが違っていて、買手側と売手側が集まっているという感じが非常に強いです。だから売り手側は脱塩のテクノロジーを発表して、使う側は運転経験を話して、裏できっとネゴシエーションがあちこちであるのではないかという気がします。そういう点では塩の国際合議はどうなんでしょうか。よく分かりませんが。
 司会 豊倉先生には講演とか、原稿をご審査いただきましたが、国際学会の豊富なご経験から、この塩のシンポジウムの特徴を準備段階でどのようにお感じになりましたか。
 豊倉 私自身はこの会合は新米でして、あまりよくは分かっていなかったのですが、たぶん1988年ごろすでに計画を伺っておりました。私自身、専門が結晶を作るほうで、食塩も結晶としての緑があるので、関心を持っていました。実はその結晶のほうの組織ですが。

 ヨーロッパにWPCというのがありまして、そこの会議が毎年開催されています。この会のオランダの代表にアクゾ社のビンクという方がおりまして、彼と1988年ごろその会議で会った時に、1992年に日本で塩シンポジウムがあり、自分はそれに関心があると言っていたのを聞きまして、このシンポジウムに対する期待は大きいなと感じました。
 いまお話を承っていますと、日本でもたもたしている間に、向こうのほうではかなりその気になっていたのではないかなと、(笑)思いました。そのようなことから、その時からこのシンポジウムは順調に進むであろうと感じていました。
 話は変わりますが、国際会議の論文発表になりますと、一般論文の公募は必要不可欠ですが、公募をする時には、どのくらいの論文が集まり、歩留まりが如何程かということが、一番気になるところでした。事実他の国際会議でも、公募や歩留まりは、国によってずいぶん差があります。
 実は3年くらい前にお世話した国際会議では、親しい人は100%来たんですが、どうかなと思う国からは歩留まりが低く、特にデベロッピングカントリーは、申込みは多いけれどもほとんど来ないこともありました。今回もそういうことは十分考えなければいけないだろうと思っていました。そういう意味で、親しい人で多少でも関心があればまず声をかけ、ある程度ベースを確保しておくことは必要であろうと考えていました。私は今度のお手伝いをするように言われた頃、ヨーロッパで開催されるWPCの合議で、京都はいいところで、特に4月は桜の花がきれいだと、もののみごとに咲いてくれたのでほっとしましたが、(笑)そういうアナウンスはだいぶいたしました。
 通常の国際会議ですと、どちらかといえば大学の人は気軽に来るのですが、企業の人の場合は忙しくて、商売が絡まなければなかなか来てくれません。今回は23私共の分野の企業で、初めて来日する人がおりました。この人達には、口コミで日本のPRをしながら、ムードを作りました。しかし私の分担した部門は、非常に範囲が広いものですから、私の専門分野だけではとても及ばなくて、いろいろな分野の方々に、論文を集めていただきました。
 そんな時、応募論文のレベルの問題がよく話題になりましたが、そのベースに私もオリンピック的な考え方を持っていました。国際会議では、多くの論文が発表されて、いろいろな国から大勢参加する。論文の中に良い論文もある。良い論文でなければ発表できないとなると、参加しにくくなる。それではいけないので、国際会議の目的が果たせないのではないかと考えました。とかく大勢の方に参加していただくことが大切で、プログラム委員会等でも、その方針だったと思います。
 蓋を開けて見ますと、デベロッピングカントリーの歩留りは、私自身の予想よりはちょっと良かったのではないかと感じました。その点はJTをはじめ業界の方々が、非常にバックアップされたお蔭なのではないかと思いました。レベルも他の国際会議と比較して、かなり良い線にいっていたのではないかと私は思っています。
 司会 有難うございました。山中社長はとてもじゃないがと前回の時にトロントで思われたそうですが、実行委員として今回の準備でのご心配は。
 山中 トロントでとてもじゃないと言った理由の一つは、たばこ関係者の国際組織で、コレスタというのがありますが、その国際会議を1976年に日本でやったんです。そのときの事務局を少しお手伝いさせていただいたのですが、それを見ていますとどうも仲々大変だ。これをまた日本で開催するのは、本当にとてもじゃないがといった気持が非常に強かったんです。
 次に実際に実行委員合で計画を練っていた中で、一番これは大変だなと思ったのはプロシーディングス(発表論文集)の問題です。これは橋本さんのご努力によりまして、オランダのエルゼビア出版社ということで進んでいるようにお聞きしていますが。
 トロントでは、私も日本の塩業についての発表をしました。当時はまだワードプロセッサというものがない頃でして、電動英文タイプライターがやっとなんです。私が発表したのが15分くらいの持ち時間でしたから、A4版で156枚ありました。原稿はきれいに打ったもので出せということなので、一つ間違えますとそこから後ろは全部打ち直しになるんです。
 それで結局合計5回くらい私が自分で打ちましたが、それでも出した原稿にいろいろな間違いなどがあって、会議期間中にホテルで、向こうの方が面接してくれて、その原稿を前にして30分ほど話をしながら、表現とかスペルの問題とか、いろいろなところをチェックしてくれました。
 中には反論したところもありましたが、初歩的なスペルの間違いなども全部出してくれまして、大変ありがたいと思いました。
 ああいうことが一体できるんだろうか、どのようにするんだろうかというあたりが、大変なことだなという感じがしたことでした。今もご苦労されていると思いますが、よろしくお願いしたいと思います。

 

見学はありのままを

── しかし現地は陰の気遣い ──

 司会 野崎社長には2回、正確に言うと3回の見学の面倒を見ていただいたのですが、見学先をお引受けいただいて、大変ご苦労があったと思うのですが。
 野崎 私は、いわばこのシンポジウムに只乗りをさせていただいた側で、苦労をした側とは言えませんので、印象もやや上滑りかもしれませんが申し述べさせていただきたいと思います。

 たまたま当社が今回のシンポジウムのテクニカルツアーに選ばれたということが社内に知らされまして、どうしようかという議論が多少ありました。基本的には大変ありがたいことだ、光栄なことだ。ありがたいが迷惑だということは全くありませんでしたが、(笑)ありがたいがご迷惑をおかけするかもしれないという、(笑)心配はいたしました。
 しかし実は私は個人的には、いま山中社長がおっしゃったように、前回のシンポジウムの時に日本からの北米の調査団に参加させていただきました。その時当社からは春藤、浅野と行かせていただいたのですが、春藤から勉強のためにお前もついて来いということで、急遽行かせていただいたんです。本来、カバン持ちでなければいけないのですが、むしろお荷物になりまして、(笑)皆さんにご迷惑をおかけしました。特に山中さんみたいにフルにお働きになった方には、ご迷惑をおかけしてばかりしていたんです。
 そういう次第ですから、実はシンポジウムの中身はほとんど忘れ去っていたのですが、やはりその時にシンポジウムのツアーで、さっきお話がありましたシフトのドムタール社の鉱山、そして当時のダイヤモンドクリスタルソルト社のせんごう工場の見学会がありました。そういう見学のことはなんとなく楽しい思い出として残っているものですから、その時の事などを思い出しながら、今回も基本的には、特に海外からいらっしゃる方が多いだろうから、飾らずにありのままを見ていただこう、ということにしました。
 具体的に申しますと、まさに工場のありのままで、事前に特別何か手を加えたりということはしませんでした。正直申しまして若干ペンキ塗り等はしました。あとは、変な話ですが男性のほうも女性のほうも洋式の手洗いというものがありませんでしたので、(笑)多少そういう改造はいたしましたが。ですから苦労めいたことというのは特に事前にはありませんでした。
 あえて申しますと、当社が例年ですと3月末から4月初めが定期修理で、工場が止まる時期でした。しかし止まっている工場をお見せするわけにはいかないということで、その定期修理を若干繰り上げるということはいたしましたが、あとはむしろ財団の方、JTの方に一切お世話いただいた格好でやりました。
 

手探りでの準備作業

幸いだった1年の余裕 ──

 司会 有難うございました。また見学会の様子等につきましては、後ほど伺いたいと思います。事務局ではもちろんいろいろご苦労なさったと思うのですが、講演や参加者の募集が、最初の難問だったと思います。橋本さん、そのあたりから23ご苦労話をご披露願えませんか。

 橋本 開催の話が決まった時点で、前回からはすでに45年経っていました。世代も替わるし、早くやってくれないかという話があったのですが、3年先ということで考えて準備を始めました。
 私もはじめはイメージが正直なところ湧かなくて、どう取り組んでいいのか分からなかったんです。幸い海水学会の面倒を多少見させてもらっているものですから、あれの国際規模のものをやればいいんだな。海外に本部みたいなものがあって、そちらの指示にしたがってこちら側が場所を貸しますということで動けばいいんだなと思っていたのですが、そうではなかったんです。本部のようなものもありませんし、これまでお世話をしてきた団体も人が替わって、実のところよく分かっている人がいないという話でした。
 それで開催の案内をするリストにしても、どんな組み立てにしていいかというのでいろいろ考えました。とにかく過去の実績を洗う以外にないものですから、幸い海水総研のほうに第2回からのプロシーディングスが第6回まで全部ありましたので、それを全部調べましてリストを作って、とりあえずはそれをベースにしました。
 あとは、イギリスのロスキルインフォメーションサービスという所が世界の塩の本を何年かおきに出していまして、それに簡単ではありますが各国の会社の住所が出ていますので、それを集めました。
 それから塩に閲した会議、例えば地質とか、動物の塩の摂取とか、あるいは血圧とかの会議のプロシーディングスに、参加した団体などのリストがあります。それなどをかき集めてリスト作りをしました。だいたい私が19884月から、198910月に長谷川調査役が来て加わってくれるまでの1年半の間に、そういうことをやりました。
 それから、海外に3年後ということを打診したところが、ちょっと都合が悪いから1年延ばしてくれということがあったものですから、1年延ばしたんです。その延ばしたことが結果的に非常によかった。1年前ですと準備不足もありました。会場も今回の所は使えなかったし、使おうとすれば時期を夏か秋にしなければならない。それが1年延ばしたために、いろいろな事が都合良く運びました。
 またお金もどのくらいかかるのか、見積りをとりました。実はこの座談会の会場、東京プリンスホテルも、先ほど話が出たコレスタで使いましたので、ここからも見積りはいただきました。横浜に国際会議場ができるという話もありましたが、時期的な問題がありました。また京都に国立の国際会議場があるというので、すぐ様子を見に行きまして、なかなか良い感じの所だなと思って、そこからも見積りをとりました。
 大体下ごしらえとしては、そんな状況でした。

 

委員会がフル活動

手作りで日本的な良さを ──

 司会 長谷川さんは確か、いま山中社長からお話がありましたコレスタの経験者ですね。
 長谷川 はい。15年前の。
 司会198910月に事務局に来られて、いよいよ本格的に準備が始まったわけですが。
 長谷川 そのあとは非常に細かい、実務的な準備になりますが、私もたばこのほうの、ワールドたばこシンポジウムとかインターナショナルたばこシンポジウムというのには、参加者としては数回出ていたのですが、事務局方としてやるのは初めてでした。それと塩ということで、たばことはちがって私は経験がありませんでしたし、大変戸惑いまして、まず最初何から手をつけようかと思いました。
 幸いにも前段階で、もう開催の時期とか場所等については決まっておりましたので、具体的な企画や内容の検討と、案内状(サーキュラー)の発行や事務処理を、あと残されております約2年半の準備期間で、どのように大スケジュール、中スケジュールを組んでやっていこうかということで、いろいろあちらこちらにご相談に伺ったり、またご指導をいただきました。
 最初に、日本の塩関係者で、過去の国際塩シンポジウムに参加された方々にお集まりいただいて、お話をうかがいました。それから過去の塩シンポジウムの議事録を読んだり、いろいろな国際会議のサーキュラーを集めたりして調査しました。日本国内で開かれるいろいろな国際会議にも参加して、経験も積みました。

 また私どもの特色を出したいということで、何かキャッチフレーズ、あるいはキーポイント的なものをどこにもってくるかという基本的なコンセプトを作りました。そのなかの一つとして技術的な問題、あるいは学術的な問題は別としますと、私どもは日本にせっかく来ていただけるわけですから、日本人のウォームス・オブ・ホスピタリティといいましょうか、そういうものを感じていただけるような、細かい心遣いをしてお迎えをしたいということで始めました。
 最初に全体の計画を作りまして、途中で修正、修正で進めていきました。その間、大会顧問、組織委員合、実行委員会、プログラム委員会といった、それぞれ有識者の方々に加わっていただいた委員会を設けまして、そこでいろいろご意見を伺い、ご指導をいただきながら、内容を詰めていきました。
 今回一番心配しましたのは、私どもなんといいましても素人の集団が数名でやっておりますので、本当にできるのか。とんでもない間違いをやっているのではないかということでした。そんな中で、準備の期間中にコンベンションの会社数社から再三にわたって、ぜひ一括して引き受けますからやらせてくださいというアプローチがありまして、見積りもいただいたのですが、二つの点で私どもの手で自主運営をしようと決めたんです。
 一つは、経済的な問題がありました。非常に高いということです。それから2点目は、せっかくこれだけのお金と時間を費やして国際会議をするわけですから、この会議のプランニングから運営に至るまで素人なりに一生懸命やって、国際会議のノウハウを私どもの塩のグループに残しておきたいという気持ちがありました。マル頼みすれば事務局は非常に楽ですが、楽をしますとそのようなノウハウが残らないということを考えました。塩専売本部の中でもどうするかねという話がありました。思い切って私どもにお任せください、一生懸命やりますからということでお願いしまして、それではやろうかということで、委員会を中心に自主運営をすることに決めたんです。
 したがいまして開催案内の文言、もちろん最初日本語ですが、それからその英訳、英語のチェック等につきましても全部私どもの事務局の手でやったというのが実態です。
 ホテルや観光地の下見、コースの選定、イベントの企画なども、すべて事務局でやりました。まあ内容的にはある程度は自負しておりますが、といいましても人間がやることですのでとんでもない間違いもありまして、今でもまだ冷や汗が出る思いがします。しかし他人任せでなく自分達の手作りでやって、参加者の方々からは素晴らしかったとのお手紙もいただき、苦労のしがいがあったと思っています。
 そんなところが、計画段階の概要です。

 

開会式・歓迎パーティー

ソフトに始まった大会

── 事前の交流で和やかムード ──

 司会 それでは大会に入ってからのお話を伺っていきたいと思います。
 まずは初日、開会式、歓迎パーティーのあたりから話を進めたいと思いますが、柏村会長は、どんなご印象だったでしょうか。
 柏村 開会式とか歓迎パーティーの印象は皆さん同じようなものだと思うのですが、JTのご努力が現れていて、非常に感銘を受けました。特に枝吉さんが最初にあいさつをされましたね。4年前から非常に苦労してと、ソフトなあいさつをされた。しかも天候とか時期、桜の時期ということも心配して、ちょうど桜が満開だったから、皆なるほどという顔をしていました。そんなのを見てずいぶんソフトな雰囲気で始まったなと思って、非常にいい印象を最初から受けました。
 これは私の個人的な話ですが、名簿を見ましたら、チリからサリナ・デ・プンタ・デ・ロボスのヘレンテ・ヘネラルさんが来ていましたね。長谷川さんに頼んで、この人に会いたいから探してくれと言ったんです。旭硝子の人とか商事の人に頼んでも分からないんです。それで私は一生懸命探して自分で見つけたんです。私ももちろん面識がなかったんですが。あれはよかったです。大変素晴らしい歓迎パーティーでした。
 司会 前囿副会長は、開会式に英語でスピーチをなさいましたが、ご印象はいかがでしたか。
 前囿 先ほど長谷川さんが、楽なことではなくて難儀なことをやってみたかったとおっしゃたのですが、私も英語が下手なのは自分が知っているだけではなくて、皆さんご承知なんだけれども、相手に分かるか分からないかは別にして、折角国際会議でやるのなら、長谷川さんに英語を書いてもらってそれを読めばいいなということで、難しいほうをやらせてもらったんです。
 私があいさつを終わって帰ってきたら、ハンネマンさんと誰だったか、手を差し伸べて握手をしてくれました。これがお世辞なのか激励なのか分かりませんでしたが。
 ハンネマンさんというのは、なかなか凡帳面な、気の利いた方なんです。特に私が事前の準備というのでしょうか、アメリカのSIに行った時に、折角来るのならば、次のシンポジウムをアメリカの塩業者の連中にPRしたらどうかと言われました。そこで単なるあいさつではなくて、シンポジウムの案内を兼ねてPRをしたんです。
 一つは橋本さんと武本さんに、シンポジウムに対する思い入れを聞かせてもらって、詳しいことは省略しますが、5つの満足を持って帰ってもらいたいということをPRしました。
 もう一つは、私は塩は人間の命の恩人だということを、シンポジウムに集まった塩の仲間の皆さん方でコンファームをしてもらおうじゃないかということを、前々から思っていましたので、SIでもそういうことを提案したいと言いました。
 そんなわけで、開会式というのは非常に緊張するのでしょうが、何かそういう前からの一連の話の続きのような感じがして、あまり緊張しなかったような気もします。
 塩が命の恩人だということは、開会式のあいさつの中にも入れさせてもらいました。そういうことが塩と健康の問題を考える一番の原点ではないか。そこからスタートすれば、医学の問題、科学の問題も何か道筋が見えてくるのではないかという素人の感覚からです。
 司会 歓迎パーティーでは、アメリカ、ヨーロッパにおいでになった時の、いうなれば旧友に相当…
…。

 前囿 そうですね。柏村さんの提案のお蔭でしょうか。予めヨーロッパ、アメリカを回って友達になった人たちと久し振りに再開をして、この前は有難う、今日はまたご苦労様、これからも仲良くしようということで、非常に素朴なレベルでの交流が深まりました。これもやはりシンポジウムのお蔭かなと思っています。
 柏村 私みたいに探し回るのは駄目ですね。(笑)
 橋本 前囿さんのアメリカの話で思い出したのですが、ハンネマンさんから私に、2月のSIのアニュアルミーティングに来ないかという話がありました。ところがあの時にイラクがクウェートに攻め込んだでしょう。それで動きができなくなってしまったんです。海外に行くのは駄目ということで。シンポジウムが1年前だったら、丁度あれにひっかかってどうしようかと非常に悩んだと思うのですが、幸い1年延びていたからラッキーだったと思います。

 

行き届いた国際親善

── ハートで超えた言葉のハードル ──

  前囿 アメリカでもう一つ、私はハンネマンさんにいろいろとお世話になったものだから、今度日本に夫婦で来るというので、それなら私の家に一泊しないかという提案をしたんです。まさかすぐにうんとは言うまいと思っていたら、イエス、サンキューというわけです。(笑)
 家内に何も相談もしないで手紙を出した後で、俺はこういう手紙を出したよと言ったら、来るって言ったらどうするのと言うから、まあ来るという返事は来ないかもしれないし、来てから心配したらいいじゃないかと言ったんです。そうしたらイエス、サンキューというので、おい、来るぞと言ったんです。それは大変だというわけです。(笑)
 そういうこともありまして一晩泊まってもらったんですが、英語が下手でも、実際人間と人間が同じ屋根の下で、飯を食ってしゃべっていれば、それなりの交流はできるものだなと、安心しました。
 柏村 それは素晴らしいことですね。外人は家で接待してもらうというのが最高の接待で、どんな高級レストランでやっても、それにはかなわない。それは素晴らしいことです。
 前囿 それはいろいろ慣れている人ならいいんだけれども、本当に英語のできないのが、私も難しいことにチャレンジするのはいいとは思ったけれども、ちょっと乱暴すぎるかなと思いながら。(笑)
 柏村 雑談ですが、私も南米にいるときに、弁護士の家によく行きました。だからその弁護士が日本に来る、お前のところはどういうところだと言うから、私の家は鉄筋コンクリートの2階建てで、テニスコートが3つ付いていると言ったんです。私は会社のアパートに居ましたから。(笑)まさか来ると思いませんからね。それはすごい家だなと言うんです。うん、来いと言ったら来たんです。(笑)あれは慌てました。もうしょうがないから、会社の寮に泊めたんです。嘘は言っていないんです。鉄筋コンクリートで2階建てで、私が勤めている会社の家というところをちょっと飛ばしたんですが。(笑)
 豊倉 アメリカは特に家へ呼ぶのが多いのではないでしょうか。しかしヨーロッパでは家へ呼んでおいて、食事は外でというのが多いように思います。家ではお茶くらいで一応歓談して、それで奥さんも一緒に食事に外へ出る。そうすると奥さんは働かないで済むので、安心して話しの仲間入りができますね。ヨーロッパでは、家で食事までご馳走になったのは、比較的少なかったですね。
 前囿 迎えるというのはやはり大変でした。門や車庫のペンキがはげているからきれいにするとか、玄関の塗り替えとか、新しい布団を用意してとか。障子の張り直しとか、家内が大変でした。(笑)だけど、お前大変だったかいと言ったら、いや大変だったけれども、初めての経験をして楽しかったと言っていました。そうだろう、俺の言うとおりにしたら楽しいんだよと言ったんです。(笑)
 司会 前囿さんは、そのあと九州の旅行まで付き合われたそうですね。
 前囿 これまた一晩寝台車に乗って、17時間かけて、ハンネマン夫婦と奥さんの両親と、ずっと寝台車で鹿児島まで行って、そして指宿の温泉に一泊して砂風呂に入りました。これは通訳がいないんです。砂風呂のお兄ちゃんが、あんた、通訳してあげなさいと言うんです。こうやって寝そべって、寝そべったら砂をかけてくれるんだというのを英語で言ったんです。あとで聞いたら、それはお前、犬に対して号令をかけているような英語だよというわけです。(笑)だけども向こうはちゃんと寝そべって、砂をかけてもらって、それで熱かったら足を持ち上げろとか、尻を持ち上げろとか、私の英語でもちゃんと通じましたね。これで本当の日本を経験したとか言って、ほめてくれました。
 司会 それは大会に入る前に大変ご苦労さまでした。
 豊倉 本当に前囿さんの九州のおもてなしは、非常に立派だったようですね。ハンネマンさんに京都でお目にかかった時に、本当に良かったと、その話を沢山伺いました。
 前囿 私にはあまり英語が通じないものだから、直接には言わなかったですが。(笑)

 

素朴で感動的だった開会式

── あいさつにも感銘 ──

 司会 話を開会式に戻して、大矢先生ご感想を。
 大矢 あまり知り合いが居なかったので交流と言う点では今一つだったんですが、アトラクションの歌が非常によかったと思います。日本の歌をたくさん入れて。照明が特に、曲の流れと一緒に動いて、とてもよかったですね。
 司会 あの歌については、いろいろあったんでしょう。
 長谷川 そうですね。あの企画にもっていくまでに二転、三転しまして、最終的には荘重な演出をしたあとで、清純な、清々しい催しをしようということになったんです。最初はプロの獅子舞とか太鼓とかいろいろ考えてみたのですが、ボランティア的で素朴な開会式にしようということで変えたんです。いろいろ当たったところ、京都に幸いにも少年合唱団がある。ちょうど新学期の始まる直前で時間的にも大丈夫だということで、それでお願いしたんです。
 田村 開会式で隣に座った外国の人が、同じようなことを言っていました。ほぼこちらが意図したような受け止め方をしてくれたようです。
 司会 田村部長は開会式では、関口大会副会長がお休みだったので、代わってごあいさつをなさいましたね。
 田村 そうですね。私は本当は登壇する予定ではなかったんですが、たまたま大会の副会長が病気になってしまったものですから、急遽出ることになったんです。
 私も同じような感想を持ちました。開会式ではどこでも共通で、皆さんその関係の方がごあいさつをされるのでしょうが、そのあとの演出が大変簡素でシンプルな、清々しいという感じがしました。だから隣の人がそのように言ったのが、大変印象に残っています。
 司会 山中社長のご印象はいかがですか。
 山中 さっきから言われています通りですが、もう一つ、失礼かも知れませんが、皆さんのごあいさつが本当に良かったと思います。大体開会式とかのあいさつは早う終わらんかなと思うのですが、今回は全然そう思わないで、じっくり聞きました。いろいろご苦労もされたのでしょうが、ずいぶんうまいあいさつをされるなと思って感心しておりました。
 野崎 ごあいさつは、いま山中さんがおっしゃったとおりです。それから私もやはり皆さんおっしゃっているように、少年合唱団がちょっと驚きでした。爽やかな、とてもいい印象をもちました。
 橋本 セクション2のマネジャーの世良田さんは京都のご出身で、今はアメリカ在住ですが、「常に感激した。子供の頃を思い出して涙が出てきた。」とおっしゃっていました。

 

特別講演・研究発表

「塩と健康」に関心

── 今後の展開に期待 ──

 司会 それでは次に研究発表会のほうに移らせていただきたいと思います。会場の運営その他のご感想も含めてお伺いできればと思います。まず聴講者の立場といっては失礼ですが、前囿副会長、講演会の運営とか、特にご印象に残ったような講演等ございましたらご披露いただければと思います。
 前囿 交流のほうが主でしたので、あまりプレゼンテーションのほうは。私は、研究発表というのは理解しにくいだろうな、それでも高血圧とナトリウムというのなら、何とか理解できるかなと思って、最初のスウェルズさんの招待講演とか、それからハンネマンさんの公共政策などの話を中心に聞きました。それでナトリウムと高血圧の問題は、これだけの学者があまり関係ないと言っているんだなと、それなりに安心したというのが印象です。
 司会 会場の質疑応答などは、スムーズでしたか。
 前囿 スムーズにいっていたのではないでしょうか。ただ中国の人で英語での質問を受け止めるのがなかなか難しかった人がいて、間に通訳をもう一人入れて、そのへんは大変だったなと思いました。座長さんが苦労されたと思います。
 司会 座長さんのご苦労は、あとで伺うことにいたしまして、柏村会長、いかがですか。
 柏村 印象に残った講演から申し上げますと、もちろん私は全部聞いたわけではありませんで、さっき申し上げましたようにうちの若い社員がそれぞれ分担して聞いて、だいぶ苦労してレポートしてくれましたので、それをまとめて皆の意見の多数派を代表して申し上げます。
 第1点は全般的に、さっき前囿さんから塩が命の恩人というお話がありましたが、塩が非常に神聖なものという、全体の印象でそういうトーンでの話があったことが、印象が強かった。
 第2点は、日本はイオン交換膜云々でやっているのに対して、海外は岩塩とかソリューションマイニングとか広大な塩田でやっている。その違いが、実態的に分かったようです。
 第3点は、これは私も聞きましたが、前囿さんも言われたスウェルズ博士の講演で、塩が悪者というのがはっきり証明されているわけではないというトーンで話をされまして、これはわが意を得たりと思いました。そのほか研究発表の中に、減塩食治療が有効な人、つまり塩をあまり摂らないほうがいい人と、そうでない人がある。誰がどちらかということを、安い費用で迅速に、間違いなく見分ける遺伝学的な研究を促進すべきである、という発表が数件ありました。私は、これは確かに今からやらなければいけないことではないかと思います。
 それから4番目は、カナダとアメリカで道路用塩、融雪塩についての報告が非常に多かった。これには非常に強い印象を受けたようです。
 5番目はタイの塩性土壌についていろいろな講演があった。またタイの耐塩性植物、マングローブなどの話もあって、印象的だったようです。
 6番目は塩田塩の品質のコントロールについて、テストパンの話が23件あったようです。テストパンというのは3mから9mくらいのものだそうですが、それで管理しているという話が具体的にあった。と同時に、海外の輸入塩の品質が近頃非常に上がってきているそうです。あまりこっちには都合がよくないのですが。(笑)
 7番目は、中国人がすごく熱心だったそうです。論文をみても多いし、またずいぶん熱心な態度を示していたのに感心していました。具体的にはヨード塩の問題について、北アメリカ、南アメリカのほかに中国の奥地にあるのが報告されています。
 8番目は、これは私の印象ですが、全般的に見て塩の調味料的な利用についての報告は日本人だけです。外国からは報告がなかったのが非常に印象的でした。それと同時にそれが塩業の業態を表していると思うのですが、そこらから今後の問題が出ると思います。道路用塩とか苛性ソーダ用塩などはもちろん大切ですが、それ以外にまだいっぱい、量的には少ないけれどもいろいろな用途の塩に対する研究とか、あるいは食品でも特に味覚の問題とか、それからもう一つは今から期待される浴用塩とか、そのようなことが今から日本では大切になると思うのですが、そういうのは今回の講演にはなかったように思います。
 それから運営のことでは、これは難しい問題ですが、シンポジウムなのだから、私はもっといろいろな専門に応じた、いろいろな交流のシステムがあってもいいのではないかと思いました。それくらいが、皆の意見をまとめたところです。
 司会 今、お二方から特に健康問題の話が出ましたが、橋本さん、コメントというか解説をお願いしたいのですが。
 橋本 塩の健康問題を取り上げるというのは、外国とも相談して、このたびの一つの目玉にしました。実は塩の問題というのはとにかく疫学の調査の1本の線が、ある意味ではでっちあげの線だと言われていますが、それが引かれたために塩と高血圧が関係があるのではないかという仮説が、仮説ではなくて本当だと信じられてしまっています。一方で仮説を証明しようとして、延々と30年来やってきているのですが、いまだに証明されておりません。
 それを疫学的に証明して決着をつけようというのが、インターソルトグループの活動だったのですが、世界で32か国52か所、1万人以上の対象者を集めて結果を出したところ、はっきりした結果が出ないで、あてが外れてしまったんです。
 そこで何とかこじつけようとして、塩を摂らない文化の4地区を入れてやると多少関係があるということで、そのレポートがブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)に出たんです。
 その同じ号にスウェルズ博士が、塩との関係などは重要ではなくて、もっと肥満とかアルコールなどが、重要ではないかという論文を出したんです。それ以来ヨーロッパでもアメリカでも、行き過ぎた減塩に対する反動の声が上がってきました。
 もちろん減塩が必要な人も居るんだけれども、そういう人の割合は少ない。その少数の人達のために大部分の人達が犠牲になるといいますか、右へならえをする必要はないのではないかという声が上がり出しました。
 そんなことで、このたびのシンポジウムにも健康問題を取り上げようということで募集もし、あるいは招待講演者も4人ほどお願いしたのですが、スウェルズ先生だけが受けてくれた。それで1人だけになったんです。
 今回の発表の中には、やはり塩は健康に良くないという発表もありました。残念ながらそのレポートは、原稿を出してくれませんのでプロシーディングスには載りませんから、具体的な内容は私にもよく分かりませんが。
 私は世界的には、今のおかしい風潮を正そうというか、「何が何でも塩は健康に悪い。」ということではないんじゃないか、という雰囲気が出てきていると思います。
 前囿 橋本さんの講演で、疫学統計を使って反証をいろいろ挙げておられましたね。
 橋本 そうですね。日本には非常に膨大な統計資料がありますが、塩との関係でいろいろ組み合わせてレポートをしているのは非常に少ないんです。簡単な疫学的なデータとしては毎年ありますし、それが同じ傾向で出ている。詳細なデータは5年ごとに国勢調査がある時に出るのですが、それが過去2回、同じ傾向で出ています。3回目の1990年の結果がまもなく出版されますが、それを整理してみて全く同じ傾向になっていれば、まず疫学的には関係がないということが、もっとはっきりすると思います。
 ですからそういう反証を挙げたいというのが私の考え方で、このたびもこれを発表しましたが、レビューアーから何か専門誌に発表したほうがいいと言われました。

 

講演を楽しむ海外講師

── 日本人技術者の発表も立派 ──

 司会 野崎社長は見学会のご準備でお忙しかったと思うのですが、講演のほうも最初の日くらいは。
 野崎 はい。私は今おっしゃったとおりで、ずっとは講演を聞かせていただけなかったのですが、一つ印象的だったものというと、今のスウェルズ博士です。特に聞いていて印象的だったのは、議論の進め方です。いっぱい疫学データを見せて、このデータのこの部分はこういう意味がある、この部分はこうで、だからこのデータははずしてみるというように、発表の上手さというのでしょうか、議論の進め方がすごく印象的でした。中身の評価まではとてもできませんが。
 それから、大学の先生方が英語のご講演が上手なのは失礼ながら当然と言えば当然ですが、私がむしろ印象的だったのは、日本人でも大学以外の方々の講演なども、非常に堂々としかも英語もクリアで、立派にされているなと思いました。その点が甚だ失礼ながら、だいぶ皆さん練習もされたのでしょうが、心強いというのでしょうか、大したものだなと感じました。
 司会 スウェルズ博士はイギリスの方ですね。社長がおいでになっていたのは確かイギリスですね。
 野崎 いえ、私は子供のころですから。
 司会 やはりスウェルズ先生が、議論の進め方がお上手なのか。それともイギリスの風土みたいなものがあるのでしょうか。
 野崎 両方あるのではないかと思います。一般論で言ってはなんですが、イギリスのああいう方達は知的な遊びを喜ぶというのでしょうか、知性を感じさせる部分を喜ぶ、尊ぶ、あるいは大事にするというところがあるのかもしれません。データの読み方とか、それをいかにも楽しんでやっているような、次々にグラフを変えながら話を進めますね。そういうことを楽しみながらやっている。ご本人は苦しみながらかも知れませんが、(笑)見ている側にはそう見えますね。
 それから、アメリカの鉱山局の方が、わずかな時間によくあれだけの事が喋れるものだと思いました。それは母国語ですから話すのが早いのは当たり前ですが、何枚スライドを見せたか。そのパワーに圧倒されました。
 山中 あのスライドは全部自分で作ったそうです。コンピュータグラフィックスで。
 大矢 あのスライドがとても印象的でしたね。
 山中 あの模様のジグゾーパズルも、自分でコンピュータで作ったということです。
 野崎 荒っぽい言い方をしますと、日本人は本当に真面目できちんとされていたので、それは大変良かったと思うのですが、向こうの人は慣れているのかどうか、なんとなく仕事だからやっているというよりは、楽しんでやっているような、そこに喜びを見出しているような、そんな感じを受けました。
 司会 今のお話、座長のお立場でいかがでしたか。
 豊倉 これは一般的に言いますと、個人の問題のような気がします。非常に楽しまれて、あれっというような話を講演に入れる人も結構おりますね。とにかくヨーロッパの人のほうが、そういうユーモアのある人が多いようで。こういう国際会議などでも、よくジョークから入る人もおられますね。そういうジョークを理解できなくては、向こうとお付き合いできないということをよく聞きます。ジョークが多すぎてもどうかと思いますが、欧米には話の上手な人が多いのではないでしょうか。
 司会 発表が初めての方も多かったと思うのですが、座長さんとして、いかがでしたか。
 豊倉 日本の方々の発表は、私の予想以上によくできていたと思います。しかも同時通訳は非常によかったですね。質問について、中国の人の中には確かに困った人も居たようですが、日本の人達は適切に対応していました。やはり同時通訳の威力と思いました。
 私も中国へ行きますと、私が英語で講義をしまして、英語と中国語の通訳が間に入るのですが、それが専門家ではないために、訳がおかしくなることが時々ありました。このような時には、アメリカに留学した経験のある人が、誤訳を訂正していましたが、今回はそういう事はありませんでした。
 それは通訳の人たちが仕事熱心で、講演内容を前の日の夜9暗か10時ごろ渡しても、それを次の日までに勉強して釆たようで、非常によくやってくれていたと思います。
 またシンポジウムの会場が良かったですね。私自身のことで申し訳ないのですが、雰囲気の良い会場ですと話すのに熱が入ります。今回、会場に入ったときに、これは話しやすいなと感じました。やはり橋本さんが苦労して探されただけのことが、あったのではないかと思います。
 私はA会場にいることが多かったのですが、いつも100人以上の人が居まして、非常に熱心に聞いていました。話す方も、確かに話しやすかったと思いました。質問もかなり活発に出まして、ほとんどの講演で、質問時間が足りないくらい活発に討論されていました。
 しかし、私がたまたまピンチヒッター的に座長の代理をやったことがありましたが、そこは狭い会場で、しかも中止の講演があって講演が点々に切れまして、聴衆が10名を切ってしまう位になったことがありました。その時はちょっと気の毒に思えたのですが、聞きに来られている方は、発表された論文にかなり関心を持っていまして、質問もそこそこあり、全般的に見て出席された方々には、ご満足いただけたのではないかと思います。
 座長の方々は、どなたも非常に熱心にやられていたと思います。私のお手伝いをしたセクションでの感想は、以上でした。

 

難しかった座長選び

── 時間調整にも座長のご苦労 ──

 司会 座長さんをお願いするのにも、ご苦労が多かったようですが。
 橋本 私はまず80人くらいの座長さんをお願いするのが大変でした。どうしてかというと、頻繁にやっている会議だとお互いに知っていますから、推薦でもスムーズにやってくれますが、9年ぶりでしかも分野が全然違うでしょう。セクションのマネジャーに言っても分からないんです。推薦もしてくれない。結局論文を見て、大学の先生に頼むことになる。
 例えばミッテルステートというドイツの大学の方に頼んだら、若い人だったのですが感激しまして、私みたいなものに座長をさせてくれるのなら、ということで引き受けてくれたんです。ところが蓋を開けたら講演がなくなりまして、座長の出番がなくなってしまったんです。(笑)でもせっかくだから、昼食会のときに、ほかの先生にお願いしてあったところを、代わっていただきました。同じようなことが、日本の先生の場合にもありました。
 司会 大矢先生は、座長さんとしてのご感想は。
 大矢 私は珍しい所で、座長をやらせてもらいました。中国人はやはり大変は大変ですが、でも一生懸命喋っていました。
 にがりのセッションだったせいか、討論はほとんどなかったです。質問がちょっとあっただけです。非常に特殊なんでしょうか。ただ珍しい人たちは、皆そこにいました。例えばベネズエラから1人とか南アフリカ連邦から1人とか、そういう方達は全部私のセッションのところへ入っていたみたいな感じでした。(笑)そういう意味で非常に面白かったです。
 司会 先生は同時通訳がない会場でお聞きになられたとか。
 大矢 ソリューションマイニングの会場です。私は珍しかったものですから、それで聞きに行ったんです。
 話の詳しいことはよく分からないのですが、やはり落盤事故の問題とかセーフティの問題、それから柱をどのくらいの間隔で残すかということをきちっとコンピュータで計算してみて予測値と合うとか合わないとか。そういうのは私は初めてで面白そうだったものですから。非常に新鮮でした。
 司会 議論は活発でしたか。
 大矢 議論はひどいものです。結局自説と違うとぎゃあぎゃあ言うんです。(笑)
 激しい議論になったのは、基本的にはやはり考え方が違うというケースが多かったようです。そういう場合のアプローチの仕方が違うとか、特に安全性の問題とか落盤事故の問題に対する対策の取り方とか、炭鉱と同じだろうと思います。
 前囿 私も岩塩坑のセクションに、同時通訳がないというのを承知で行ってみて、暫く聞いていたけれどもさっぱり分からない。それで諦めて出ましたが、その時は、何か岩塩坑を掘ったあとに重油を貯蔵するというような‥…・。
 大矢 LNGでしょう。
 山中 それは先ほど話に出た、アメリカの鉱山局のコスティックさんが、ミネラルイヤーブックの塩の所に書いています。岩塩坑の廃坑の利用などがずいぶん載っています。原油の貯蔵に使うとか、ガスの貯蔵に使うとか、美術品を保存するとか、そんなのもあるみたいです。
 大矢 美術品の話は確かしていたような気がします。
 司会 山中社長も座長の労をおとりになりましたが、いかがでしたか。
 山中 私は、私自身が全く素人の歴史のところの座長を、オーストリアのパルメさんという方のコ・チェアマンということでやらせていただきました。当初発表が4件予定されていたのですが、フランスのオッケーさんという方と、ドイツのピアゼッキーさんの2件だけになってしまったんです。それでオーストリアの座長さんが一生懸命に議論をさせようとしたのですが、なかなかうまくいかなくて。
 英語が全部が全部理解できるわけではなし、何でも言いたいことが言えるわけでもないのでだいぶ苦労はしましたが、ほとんどパルメさんにお願いしてやっていただきました。
 前囿 私もそこへ行きましたが、欠席があったから時間が余ってしまったんです。それでディスカッションをしようと言って、座長が一生懸命呼びかけるけれども、あまり質問が出てこない。そこへ垣花先生が見えていて、垣花先生は歴史とはあまり関係がないかなと思ったけれども、あの方も義理固いんですね、日本も何か言わなくてはいけないというので、先生が立って話をされていました。そうしたらまたそこへ枝吉さんがいて、垣花先生に任せていたのでは申し訳ないというのか、枝吉さんもまた立って質問しました。それでも時間が余って、少し早目にやめてしまいました。
 大矢 プログラムのやり方というのがあるんですが、今回は定時間だったでしょう。ところが国際会議では時間を決めないところが多いんです。発表の数だけ入れておいて、それで時間を決めないというやり方です。それで朝食会をやって、そのときに何人来ているか集めるんです。それで時間割をそれぞれ自己申告させる。私は20分欲しいとか、私は30分だとか、10分くらいでいいやとか、適当にバランスを取って、その上で午前中セッションフルとか、午後セッションフルとかという具合にするんです。
 そこで座長が采配して、今度は少し発表が多すぎたら、ではお前、どうだい、やらなくていいだろうとか言って、じゃ俺やらなくていいやとなる。(笑)そういうのが脱塩のほうは多いです。
 日本人はどうしても定時間でいきたがりますが、われわれ座長としては定時間できちっとタイムキーピングをやるのは、非常に大変なんです。

 

効果的だった昼食打ち合わせ

── しかし本命ガ欠席のケースも ──

 司会 座長さんと発表者の昼食打合せ会も大変だったと思いますが、効果はいかがでしたか。
 橋本 良かったのではないかと思います。人数が多くて、どうなることかと実は心配しました。とにかく初日は午前の講演が延びてしまって、昼食会が始まるのがずいぶん遅れたんです。ただ、昼食会でやっていただきたいことは、6日の開会式の前に現地でプログラム委員会をやって、そこで事前に話しておきましたし、刷り物も用意して、マネージャーから座長へ渡してお願いしておきましたので、わりに実質的にはうまくいったのではないかと思っています。
 豊倉 私も、2日目の時だったでしょうか、とうとう食べる時間がなかったんです。ということは、それほど打ち合せの仕事があったということで、昼食会はあって良かったと思います。やはり不測の事が、起こるものですね。
 大矢 朝食会はできなかったんですね。
 山中 会場の都合で、無理だったようです。
 昼食会もなかなか難しいというか、あらかじめ打ち合わせておかなければいけないような人が、必ずすっぽかすんです。(笑)ですから柏村会長のところの大沼さんが、イタリーの人ですとか、あらかじめ話をしておきたいという感じの方が出てこられないと言っておられました。あれは大変だなと思いました。
 司会 現地に来てから、個人的に時間を延ばして欲しいとか、いろいろ個人的な要求が座長さん方のほうに直接ありましたか。
 大矢 今回私の所では、ありませんでした。他の学会では、キャンセルが予め分かると、逆に座長の方からダブルタイムでやってくれというようなことがあります。私などもよくやらされました。
 橋本 そこは座長にお任せしたんです。ただダブルタイムまでいいということではなくて。ディスカッションで延ばしてもいいし、休憩にしてもいいし、とにかくお任せします。次のスタートはきちんと時間を守ってやってくださいということだけでしました。
 大矢 本当は、講演が少ないことが分かっていれば、座長が発表者に少し長く喋ってくれと頼んでおけば、後で心配しなくて済みます。ただ日本人にはたいてい頼めませんね。もう原稿を用意されていますから。
 司会 スライドの受け渡しとか、会場運営などはだいたいスムーズだったでしょうか。
 豊倉 1人でしたが、アメリカの人がOHPを持って来て、スライドを持っていなかったんです。それで急遽作ってもらって間に合わせましたが、その点事務局は、本当に立派なものだったと思います。
 橋本 OHPは使えないという案内は何度もしたのですが、日本人でもOHPを使うつもりの人がいたんです。部屋がこれくらいの大きさだからと、はっきりOHPが使えない理由を書いておけば、もっと徹底したと反省しています。
 案内はしても、やはりOHPを持って来る方があり得るからということで、その対策として、すぐスライドが作れる手筈をしておいたんです。

 

見学会

心配だった時間と天気

── スケジュールの狭間で苦心の策 ──

司会 それでは次に見学会に移りたいと思います。見学会は、ご存じのとおりJTの関西工場、それから三洋電機等もあったのですが、何と言いましても、関心も高くてご苦労をお願いしたのはナイカイ塩業さんです。これは2回、実態を言うと3回になったようですが、そのへんのお話を、ご披露いただけますか。
 野崎 先ほども申し上げましたように、当社としてはありのままを見ていただきたいということで、事前に311日でしたか、大矢先生をはじめ実行委員会の方々に、事前の検分をしていただいて、建物、あるいは見学路等をご検討いただき、その線に沿ってお見せしようということになりました。
 具体的に2つ課題がありました。1つは時間、もう1つはお天気です。まず時間のほうを申し上げますと、ナイカイはとにかく工場の中のことだけ準備をすればよろしいとおっしゃっていただいたので、それは大変有難かったのですが、いただいたスケジュールですと、たしか1時にバスが着いて2時半には出発する。この2時半の出発は変更ができない。と申しますのは、新幹線の切符をとっていらっしゃるので、これは変えられない。正味1時間半です。
 ところがスケジュールを拝見しますと、その前に瀬戸大橋をご覧になって、与島で食事をされる。私達が普通に考えますと、瀬戸大橋を出発してから私達の工場までには、だいぶ時間がかかるのではないか。そうすると1時にお着きになるのはかなり難しいであろう。そうすると私どもみたいな工場でも、見学に来られて、工場に着かれてからバスが出発するまで90分というのは、正直申しましてかなり短いんです。さらにそれが短くなれば、その点をどうするか。
 普通、見学の場合はどちらもそうでしょうが、工場にお着きになると、どこかの部屋にお通しして、その間にも5分や10分はあっという間に経つわけです。そのあとは工場の簡単な説明をする。工程説明をする。見学をしていただく側とすると、ここの部分は本当は力を入れて、工場の実態に詳しい者が、縷々工程説明等を申し上げると丁寧かなという気がします。普通ですと、それでたちまち30分やそこらはかかるんです。しかしそれでは時間がなくなってしまう。これを切りつめなければいけない。どうやって切りつめるか、ということになりました。
 もう一つ、もし質問があったら、先に写真撮影と工場見学をしていただいて、その後で時間があればということにしていただく、ということで取り組みました。
 ところが会期前の42日に、前囿副会長が鹿児島までご一緒なさったハンネマンさんのご一家が、京都への途中で岡山に寄られたんです。工場に来られるという話は、事前にはなかったんですが、折角日本に来たんだから、お前のところの工場を見せるようにという話が、JTを通じて突然ありまして、ご一家4人で来られたんです。その時に、これは駄目だと思いました。
 と申しますのは、私どもが縷々ご説明申し上げたらもう時間を食ってしまって、これは本番のときはえらいことだ。こんな調子ではどうにもならないというので、それでどうしようか。実は正直申しまして、当日の朝まで悩みました。
 折角通訳が付いていますから、本来ですと工場に一番詳しいものが日本語でご説明して、通訳に丁寧に解説していただければいいのですが、これはとても無理だから、とりあえず私が数字も何もなしで概要をご説明して、失礼ながら通訳さんも入れないほうが時間が経済ですから、私で通じるかどうかは別にして、それでやりましょうということに、急遽いたしました。それで15分くらいで、概要をご説明しました。
 そこで私が予想したのは、外国からお見えになって、何に興味をお持ちになるだろう。ご自分たちと一緒のところを比較したいということもあるかも知れませんが、先ずは物珍しい所だろう。そうしますと日本の場合は、当然の事ながら電気透析の所は初めての方が多いでしょうから、工場見学ではとりあえず電気透析の所を中心にご案内する。
 もう一つは、やはり歴史的背景か。これはシンポジウムの時に大野室長が詳しくご発表なさっていますが、それを復習のような形で、ともかくお見えになったら、ご覧のように日本では岩塩という資源はない。だから塩は歴史的にずっと海から採らざるを得ない。ところがメキシコやオーストラリアと違って、気候条件から、太陽と風の力だけでは塩までにはならない。だから太古以来、われわれは2段法で、まずかん水を作って、そのかん水を煮つめて塩にするというやり方をしている。
 私どもの場合は160年くらい昔の塩田時代、あるいは平釜や昔の釜屋の写真等がありますのでそれをぱぱっと最初にお見せして、かん水を作る工程はこのように、入浜式から流下式へ、そしてイオン交換膜式になりました。イオン交換膜式はこれこれです。釜の方は、昔は塩田の回りにこのように煙が立っているように、釜屋がありまして、それが集合してせんごう工場ができましてと、そういうことだけ復習をさせていただいて、後はごく簡単な工程説明をするということに、結局いたしました。その方がわれわれもあまり細かく説明申し上げるよりは楽なものですから。
 あとは現場をご案内して、それでやはり大体時間一杯になりました。と申しますのは、2回とも結局1時に来られるというのが1時半になりました。ですからバスの到着から出発まで、正味1時間で大変慌ただしい。ある面では質疑応答の時間が短かくてわれわれは楽もしましたが、(笑)そういう慌ただしいことでした。
 もう一つの課題はお天気でした。これは正直心配だったのですが、8日の1回目のときは極上のお天気で、10日は朝は雨が降っておりましたが、見学の時には曇りで、傘はいりませんでした。傘を持ってということでは、ああいう工場をご案内するのは難しいかなと思っていたのですが、お蔭さまでその方は恵まれました。
 いろいろと申し上げましたが、一応そういうことでした。ついでに余計なことながら、2回見学があって私どもの印象ですが、たくさんの方に来ていただいた。敢えてこの2つの見学会の印象の違いを申しますと、これはまさに余計なことですが、1回目は失礼ながら大物、柏村会長をはじめ大物の方が多かったのです。外国の方でも、セーヤーさんとか、ド・ボルデスさんも来ておられました。それで私が勝手に思ったのは、どうもこれは1回目は8日でまだシンポジウムの最中ですから、大物はシンポジウムを聞かないでよろしいので、(笑)2回目は実務家といいますか、10日はもうシンポジウムの終わったあとですから。どうもそのような印象を持ちました。
 柏村 時間が短くて残念でしたが、正直なところ野崎社長のご説明といい、大変評判がよかったです。本当に、お世辞ではなくて。謙遜される必要はありません。皆大変喜んでいました。立派なものです。
 野崎 実際にはあれだけの方を京都からお連れして、おそらく大変だったと思います。JTの方は特に。2回目の時は、与島で突然インドの方かどなたかが菜食主義者で、食べ物が合わないということがあって、随分ご苦労されたとか。そういう点では、ホテルのお迎えからずっとご案内された方々は、さぞや大変だっただろうなと感じました。
 司会 長谷川さん、いかがですか。
 長谷川 朝出発が早いし、時間が窮屈だということでいろいろ検討したのですが、どうしてもこの時間しか設定できないということで、万止むを得ずいろいろご迷惑をおかけしました。
 ナイカイさんの見学会は定員が36名で、2回共定員一杯でした。さらに会期の途中に、中国の参加者からどうしても見学したいと言われまして、それで止むを得ず49日にもう一つ別口で、ナイカイさんに無理にお願いしまして、中国の方だけ15名の見学を受け入れていただきました。これはとにかく自主的に行っていただくということで、新幹線の切符も各自で手配をしてもらいました。
 工場見学の時間が窮屈な中で、夜のパーティーにもちゃんと間に合うように帰していただきましたが、ナイカイさんのご苦労は大変だったのではないかと思いました。

 

いろいろあった現場の対応

── 食事の問題は何とかクリア ──

 司会 先ほどの昼食の話は、どう対応されたんですか。
 長谷川 先ほどのお話のベジタリアンの方には、お世話役で同行した応援の方が、急遽サンドイッチに切り替えて対応したと聞いております。
 バンケットでもやはり同じように、ベジタリアンだという申告が現場でありまして、数名の方だったんですが、これもホテル側が急速対応してくれまして、約20分遅れでベジタリアン向けの食事を用意して出すことができました。
 柏村 JTさんは素晴らしいアレンジをされて大変ご苦労なさったと思うのですが、一つだけ、あれはどうしてかなと思ったことがありました。
 私は都ホテルだったのですが、ほかのホテルでも、ホテル側のバスの案内に大変不備が多かったようです。皆バスは来ないのかな、どれに乗るのかなと、大変心配していたんです。
 山中 はじめに運行表が配られましたが、ホテルのポーターがよく知らなかったようです。それで時間が変更になったような感じを受けてしまって、あの運行表は当初の予定だけで、あとで変更されたんだなと思い込んだ人も居られたようです。
 柏村 まずホテルの前を出るバスは、われわれのバスだけではないんです。それともう一つ、京都は大変な交通渋滞でした。時間が狂うんです。その上、どれがシンポジウムのバスかということが、フロントに聞いてもボーイに聞いてもはっきりしませんでした。
 シンポジウムの会場に行く時はまだいいけれども、ナイカイさんへ行く時はもういらいらして、バスの中で皆文句を言ってました。京都駅までタクシーで来たグループもありました。
 長谷川 実は私達はもっと事前に、海外の皆さんがお国を出発される前までに、バスの時刻も含めて送迎などの計画を、全部皆さんにご連絡しておく必要があると考えまして、去年の秋から輸送の関係を担当した日本交通公社(JTB)に、再三作業を急ぐようお願いしたんです。ところが結局は遅れてしまって、その遅れがホテルの方での対応の不備にもつながったようです。ご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありませんでした。

 

バンケット・JTパーティー

出会いとダンスのバンケット

── 寛ろいだ触れ合いのJTパーティー ──

 司会 次にパーティー関係に移りたいと思います。バンケットとJTパーティーにつきまして、一括して伺いたいと思いますが、まず豊倉先生、奥様のご意見やご感想も含めてお願いいたします。
 豊倉 バンケット等につきましては、JTパーティーも含めて非常に豪華で立派だったという印象を家内も持ったようです。本当に至れりつくせりでしたね。よく外国での国際会議のパーティーにも出るのですが、それとは較べものにならない程立派でした。特にバンケットの時に舞妓さんがテーブルまで来て、海外のお客さんと写真を撮ったのには、皆喜んでいました。
 野崎さんにお手配をいただき、前囿さんにカメラをお借りできて、記念写真が出来ました。その次の週に私ヨーロッパへ行ったものですから、その写真を持って行ってやりましたら、皆大喜びでした。
 テーブルの懇談では、ドイツとオランダから別々に出張で来ていた1組の夫婦と一緒に楽しみました。この方達とは初対面でしたが、奥さんと旦那さんとは別々の企業に勤めているんだそうです。両方が出張の日程を合わせて、ここに来たとのことでした。日本ではとても考えられないことで、世界は広いと感じました。
 司会 ご夫婦それぞれの目的でご出張だったんですか。
 豊倉 はいそのようです。別々の会社ですから、別々に出張を申請して来られたという話でした。
 司会 田村部長、JTのパーティーは社長もおみえになるということで、企画のほうも大変だったのではないかと思いますが。
 田村 4日間の会期の中で、ある程度公式的なウェルカムとフェアウェルのパーティーを最初と最後に入れて、バンケットが入って、そうするとあと1日夜をどうするか。それで借越ですが、わが社がご招待という形で、ちょうどなか日にお寛ろぎいただいたらどうかというのが、もともとの発想でした。そして外国の方にとっては遠い日本に来ていただいて、ひと息入れていただく場にしたいというのが大きなテーマでした。
 せっかく日本に来ていらっしゃるわけだから、やはりその中に日本的な特徴を何か出そうじゃないかということが、一種のメインテーマでパーティーをやらせていただいたんです。
 豊倉 あの阿波踊りは非常によかったと思います。実は私と親しいスイス人があの中に夫婦で入っていまして、手拭をもらって大喜びして踊っていました。彼らが踊るとは思わなかったのですが、盛り上がっていたんですね。実に良い企画だったと思います。
 田村 例えばバンケットみたいなものは、ダンスをおやりになったようですが、やはりいくらか格式張ったところがある。それに対して肌と肌と触れ合うというのでしょうか、お互いに親しみを増すような補助手段みたいなものに、日本では何があるかというと、阿波踊りというのは、そういう意味では恥を忘れて飛び込むようなところがありますから、外国の方にもああいう場面ではやっていただけるのではないか。そのような感じを事前に持っていたんです。
 司会 前囿副会長、いかがですか。
 前囿 バンケットでは、ずっとミスター・ミセス垣花、ミスター・ミセス枝吉、ミスター・ミセスハンネマン、ミスター・ミセス前囿で、もう仲間でしたから非常に和やかにやりました。
 それから、あれはどういう加減でダンスになったんですか、気がついたらうちの家内がECSSの会長のクネジツェックさんとダンスをしているんです。(笑)あれ、これは珍しいことだなと思っていたら、今度は、あれは豊倉先生のテーブルだったか、南海塩業の阪之上さんが、こういうバンケットではメインテーブルに座っている人はダンスをせにゃいかんのやと言って、ヨーロッパの女性を私にあてがわれたんです。これがまた全然知らない、初めての人で、(笑)あんた踊りなさい、私がちゃんと写真を撮ってやると言って、見知らぬ人とダンスをやらされました。うちの家内も国際会議のバンケットとかなんとかは初めてで、ダンスまでやらされてびっくりしたけれども、大変面白かったと言っておりました。
 司会 ご夫人ご同伴で、山中社長、いかがですか。
 山中 パーティーですか。家内の話では、同伴者プログラムの時に、ドイツ語の通訳が付いていた方のバスに主に乗っていたらしくて、その時一緒に乗っていた南アフリカの夫婦と、バンケットでたまたま同じ席になったんです。それでそのご主人と沢山お酒を頂いたりしながら、大変楽しく過ごさせていただきました。
 その時に一つ感じたのは、トロントでは、14入行きました日本人が、固まってしまうようなことがありまして、そういうことになるとまずいなと思っていたんです。でもバンケットの時にあちこち拝見していたら、席割りなどもうまくばらまかれた状態で、それぞれよくお話しされているようで、これはよかったなと思いました。
 田村 私などは、JTのパーティーの時に某氏に、日本人とばかり話をしていないで、少し外国の方のホスト役をせいと言われてしまいました。(笑)
 前囿 あれはJTパーティーでしたか。餅つきがありましたが、私は餅をお皿にいっぱい入れて、これもやはり国際交流だなと思って、ジャパニーズライスケーキと言って、お箸を添えて、皆に食べろと売って歩きました。アイ・アム・ライスケーキセールスマンと言って。(笑)みんな売れました。
 柏村 バンケットとJTパーティーは、よくお考えになったと思います。バンケットの方はダンスなどを計画して、JTの方が日本式で。
 私はバンケットの時に、初めメインテーブルの隣が当たったから変えてくれと言ったんです。端っこにしてくれと。(笑)そしたらそこはたまたま面白かった。デンマークのグループと、それからインドのチョーグルさんと一緒になったけれども、デンマークの人は私は初めてでしたから、いろいろ面白い話を聞きました。スカンジナビアへ塩を出している話とか。はじめはよく分からなかったんですが、アクゾの子会社のダンスクの人なんです。その人とは翌日、ナイカイさんへ行った時にまた一緒になりました。それでこれはテーブルを変えてもらってよかったなと思ったんです。お蔭でデンマーク人の奥さんの手を握って、ダンスができましたから。(笑)大変よく計画されていたと思います。
 前囿 ダンスは、最初からプログラムに入っていたんですか。
 田村 ヨーロッパではメインテーブルの方がともかくスタートでダンスを始めるのが習慣だそうです。そうでないとほかの人が踊れないというわけです。アメリカはそうでもないらしいですが。
 前囿 そういうことは知らなかったものですから。
 長谷川 最初に会場のホテル側から、是非ダンスタイムをとりなさい、たっぷり40分くらいはとりなさいとだいぶ薦められました。でも私どもはあまりそういう習慣がありませんから、そんなに時間をとっても踊る人が居ないんじゃないか、音楽ばかり流れておしまいになったら格好悪いじゃないかと思っていたんです。でも蓋を開けてみたらそうではなくて、最初は大会会長夫人が踊られましたね。それでだんだん輪が膨らんでまいりまして、終わりの頃はフロアーが一杯になる位の盛況で、ほっといたしました。
 田村 園部会長は、注意されたと言っていました。あなたが踊らないと、皆踊れないんだと。
 司会 バンケットでは、料理も工夫されたんですか。
 長谷川 それは、塩のシンポジウムですから、塩にちなんだ料理を是非1品作って欲しいと、ホテル側に頼みました。最初向こうはピンと来なくて、塩のこんな固まりはしょっぱいばかりだから料理になりませんと言うから、そんなことではなくて、いろいろ知恵はあるでしょう。例えば牛肉を塩のパイで包んで、塩がじんわり浸み込んだようなものであるとか、あるいはマスの塩焼もありましょうしと。結局、塩を焼き固めて敷いた上に、エスカルゴをのせたものを作ってくれたんです。皆さん気が付かれたかどうか。
 司会 大矢先生も、お楽しみになりましたか。
 大矢 ああいう時は、必ずダンスをしなければいけないルールなんです。それも1回踊り始めたら、知り合いのところは大体踊らなければいけないんです。私は知り合いの女性の方が1入居ましたから、これは踊らないとあとでえらいことを言われるなと思いまして。(笑)
 前囿 それは誰ですか。(笑)
 司会 野崎社長は、パーティーにはご出席になれましたか。
 野崎 申し訳ありません。バンケットも翌日のことがあるので、途中で失礼させていただきました。JTパーティーの方も、折角でしたがばたばたしておりましたので。
 司会 こちらこそ、本当に申し訳ありませんでした。

 

同伴者プログラム

広がった交流の輪

── 素晴らしかつたガイドさん ──

司会 では次に同伴者プログラムのご感想を、ご夫人がおいでになった前囿副会長、豊倉先生、山中社長に一言ずつお願いしたいと思います。
 前囿 うちの家内が言っていたのは、初めてで大変楽しかったけれども、惜しむらくはもう少し英語の勉強をしておけばよかった。もったいなかったと言っていました。最初は着物がどうとか、なんとかかんとか言っていましたが、結構楽しかった、言葉不足で残念だったと言っていました。
 豊倉 計画の段階では、内容が日本的に盛り沢山で、海外の方には大変だなという印象だったようですが、実際に参加しますと、かなり時間の余裕をとっていただいていて、皆さんゆっくり楽しめたようです。日本の懐石弁当の、色々なものが少しずつ入っているのが、健康に良いしとても楽しいと、材料や調理方法などを尋ねられたそうです。
 日本で開催される国際会議の行事では、内容が豊富すぎる反面、ガイドまで手が回らず、疲れるだけで終わることがよくあるのですが、今回は英語のガイドの説明内容も良くて、大変充実していたようです。それでパチンコ屋の景品の交換所を初めて知ったとか。(笑)いつも人だかりがしている小さな窓口を、家内は何だろうと思っていたのが、これで解明したと、(笑)喜んでいました。またこのガイドはフランス語も完璧だと、フランスのミセス・コーラも大変褒めていたそうです。
 山中 さっきも言いましたが、大体ドイツ語の通訳のバスに乗っていたらしいのですが、お客さん方は皆さんどのツアーも、大変喜んでいただいてよかったように言っておりました。
 しかし正直言って、お世話役のご夫人の事前の打ち合せなど、ちょっと大袈裟に構え過ぎていたきらいがあるんじゃないか、という印象は持っているような感じでした。
 豊倉 もう一つつけ加えますと、ある学会のときには、ボランティアの人がいろいろ手伝っていました。ところが観光地に近いところのボランティアの中には、手慣れているのは良いのですが、雑な扱いをする人がおりまして、そういう人に相手をしてもらって、外国からのお客さんに失礼ではないかと、はらはらしたことがあったようです。そのへん今度のガイドの方々は、皆親切丁寧でお行儀もよくて、良い印象を持たれたようです。これは長谷川さんがずいぶんご苦労されて、努力されたお蔭ではないかなと、私なりに感じました。本当にどうも有難うございました。
 司会 長谷川委員長からちょっと説明をと思ったのですが、時間の関係もありますので、省略させていただきます。

 

閉会式・送別パーティー

印象的だった次回予告

── 確認された連帯感 ──

 司会 次に閉会式ということになるのですが、送別パーティーも含めて、野崎社長は。
 野崎 出席させていただきました。やはり一番印象的だったのは、ビアマンさんが、「次回は」といわれたことです。トロントの場合と違って、はっきり印象に残っています。それも年度まで大体出まして、ヨーロッパということをはっきり言っていました。それにはおそらく裏方で、皆さんいろいろご苦労があったんだろうと思いますが。
 もう一つはやはり、ああこれで皆さんがご苦労された大会が終わったんだなということでした。
 司会 柏村会長、ご感想は。
 柏村 印象は野崎社長と同じです。
 それからこれは個人的な体験ですが、都ホテルに4人のタイの人が泊まっていて、それを1人の日本人が毎日世話をしていたんです。知り合いになって聞いてみたら、その人は旭硝子から派遣されて、いま日本ドライケミカルに行っている吉田という方でした。その吉田さんは、タイの岩塩鉱山の開発について、今回ドイツの人が発表した論文の、共同研究者の方なんです。
 私は、日本人がタイ人4人を一生懸命世話しているわけですから、不思議に思って聞いたら、その吉田さんという人は、タイのタスコ社に行っていた人なんです。タスコ社では最初岩塩を使って、苛性ソーダを作っていたけれども、それをソリューションマイニングにして、今は食塩も作っているそうです。それを完成して帰った人なんです。
 それだけなら何でもないんですが、よく聞いたら、4人のタイの人がその吉田さんを、このシンポジウムに向こうの費用で招待してくれたんだそうです。タイ人4人はかつての部下なんです。その部下がかつての日本人の上司を自分らの費用で京都まで呼んで、参加させているんです。私はすっかり感激して、帰ってから旭硝子の友人に、あんたのところにはこんな立派な男がおるぞと言ってやりました。
 ナイカイさんの見学でも一緒になりましたが、タイの人は日本の塩のシステムについてしつこく聞いてきまして、私はあまり詳しくは言わなかったけれども、えらく関心をもっていました。その方が、大変野崎さんをほめていましたよ。それからお蔭ですっかりタイに興味を持つようになりました。
 司会 大変貴重なお話を有難うございました。
 野崎社長から、次期の開催予定が明らかにされたことが印象的だった、というお話がありましたが。前囿副会長、この事につきまして一つ。
 前囿 2年前ですか、ヨーロッパへ行ったときに、ド・ボルデスさんと会って、私は提案したんです。シンポジウムを今度日本で開く。開くについては、これを定期的に開くようにしていきたい。そのためには、国際塩シンポジウムの事務局を持っていたほうがいい。ついてはアクゾは世界一の塩会社だから、アクゾにシンポジウムの事務局を置いたらどうかと提案したんです。そうしたら彼は、さすがですね。すぐOKと言わないで、今度は日本でやるだろう、その次はどこかでやるだろう。そのようにして、まず定期的に開くということを何回か続けていけば、自然に事務局とか何とか、そういう詰もできるんじゃないかと言っていました。
 私はアメリカの塩協会に行った時も、定期的に開催することを提案しました。SIのハンネマンさんは、クネジツェックさんとかド・ボルデスさんにも提案をしていると言いましたが、まず焦るな。日本でやって、シンポジウムに参加した人たちが、シンポジウムの現場に自分の肌で触れれば、これからやはりやったほうがいいとか、これじゃもうあまりやらんでもいいなとか、そういう感覚を皆が持つ。その結果を集約したらいいんじゃないかということを言っていました。
 京都シンポジウムを経験して、彼らもいろいろ相談をして、これだけ楽しいのならやはりやらなければいかんね。それならやっぱり今度はアクゾかねということになったのではないか。そういう実績が積み重なっていくのかなと、私は思います。そういう意味では、暫く間があいたけれども、日本で皆さんが苦労されたかいがあったと思います。
 フェアウェルパーティーで、第3回から全部出たという人の話を聞きました。比較して、やっぱり日本が一番良かったよと言っていました。そういう京都シンポジウムの成果が、今後につながっていくのかなという意味で、非常に良かったと思っています。

 

今後への期待

活用したい大会の成功

── 育てたい若者のネットワーク ──

 司会 どうも有難うございました。それでは最後に今後の展開ということで一言ずつお願いしたいと存じます。まず田村部長、よろしくお願いいたします。
 田村 今の心境は、まず大会が終わってほっとしたというのが正直なところです。もちろんまだ後始末が残っているのですが。これからは、折角これだけの人のつながりなり、組織としてのつながりなりができたわけですから、今ちょうど日本の塩の専売制度をどうするかとか、あるいは塩産業の自立化をどうするかといったことを盛んに言われている時期でもありますし、これから先々の日本の塩が、世界の塩と無縁で生きられるはずがない。そういう意味ではこういうものを契機にして、外国との人的なつながりを広げて、いろいろと世界の知識や情報が、できるだけ日本にも遅滞なく入るような仕組み作りが必要だと思います。そのための一つの契機にしたいと感じています。
 前囿 私は、事前にいろいろありましたが、終わったら、なんだ、もう終わったのか、またやりたいねというか。(笑)次回開催国が決まらないような感じだったら、もう1回日本でやったらどうかなという感じがしていましたが・・…・。(笑)
 日本の塩業は今まで国内だけで、しかも専売制のもとでやっていたけれども、これからは、やはり外国とじかに友達付き合いができるようにやっていく。専売制があろうとなかろうと、日本の塩産業が強くなるためにはそういうことが大事なのかな。世界の塩産業を相手にして、ドント・ウォーリー、ビー・ケアフルということで、何よりも先ず絶えず行ったり来たりして交流を深める。会って握手をして、話をする。飯を食べる。そういうことを行動としてやっていくことが、日本の塩産業を強くする所以なのかなと思っています。
 柏村 今おっしゃったとおりですが、私は国際シンポジウムがせっかくここまできたので、テーマを一つはっきり取り上げて欲しい。その前提としてまず日本サイドでも研究すべきだと思います。そのテーマは、環境問題と塩です。その環境問題と塩ということでは3つ思い付いているんですが、一つは道路用塩などの問題です。これは外国のほうが詳しい。2番目は、工場の排煙・排水の問題。3番目は、炭酸ガスとか酸性雨といった大きな地球環境の問題と塩との関係です。これはちょっと難しいかもしれませんが。これらを積極的に国内的にも取り上げるべきだと思います。
 というのは、これからは塩の消費を、食用とか苛性ソーダだけではなくて、何か、とにかく沢山使う新分野に目を付けなければいけないと思うからです。
 野崎 私もやはり、結局世界の中の日本ということですから海外のことを知りたい。そのためには所詮はフェース・ツー・フェースで合わないと、いろいろ分からないことが多い。こういう機会を通じて、今の言葉で言うとネットワークと言うのでしょうか、それを段々と作っていくということが大事なんだろうなという思いがします。
 ただ、ちょっとご質問と視点が違うかもしれませんが、もう一つ感じましたのは、今回このように大会がかなり大掛かりに、しかもスムーズに進行できたのは、一つは何といってもJTさんの力があったと思うんです。組織力です。これは私の甘えかもしれませんが、今後も塩についていろいろなことがありますが、是非またそちらの面でもJTさんのリーダーとしての力を発揮していただけたらありがたいなと思っております。
 山中 なかなかこういうチャンスに、いろいろな人と合って、そのときは知り合いになって、インティメートになるのですが、必要がなくなるとだんだん薄れてくるみたいなことがあります。具体的に、いま柏村会長が言われたようなことも一つですが、何か関係を継続できることをやっていく必要もあるんだろうと思います。
 私もひと頃凝ったことがありましたが、例えばパソコン通信みたいなものが最近ある。ああいうもので、今ネットワークという言葉も出ましたが、今回のシンポジウムの参加者とか、そういった人がお互いに意見交換できるような場を考えていくとか、そういうことも一つの方法ではないか。
 今のところあまりまだポピュラーになっておりませんが、これからは急速に使いやすくなるのではないかと思います。そのようなことができれば、例えば今のJTの中でそういう場を確保するとか、あるいはソルト・サイエンスさんの方でそういう場を確保する。それは現在できているシステムの中でやっていけば、NTTの電話を借りるのと同じような気軽さでセットできるわけですから、そういうやり方もあるのではないかと思っています。
 豊倉 実は423日にフランスのツールーズで先ほどのワーキングパーティーがありまして、そこにオランダのデルフトの教授が来ておりました。
 そこでも日本での塩シンポジウムが話題になりまして、次回はオランダで開催されることにが集まっていました。その意味で今度の大成功について、ヨーロッパでは来日した人以外の人も、非常に関心を持っていると思います。
 先ほど柏村会長さんのお話にもあったのですが、今回のシンポジウムの記憶が薄れない内に、この会に出た若い方をぜひ海外に行かせ、京都の塩シンポジウムを話題にしながら、向こうの人達と接すると良いのではないでしょうか。今は、若い人が国際的になっていく、またとない機会と思います。
 大矢 皆さんいろいろおっしゃったので申し添えることはないのですが、結局山中社長がおっしやいましたように、キープ・イン・タッチという言い方をするのですが、キープするのがなかなか難しいのです。塩のシンポジウムは今回は9年ぶりと、そう度々やるわけではないので、豊倉先生の言われたように、しょっちゅうある学会などを通じて交流をしていく ということが一番いい。やはり毎年なり、1年おきなりくらいでやっていかないと、なかなか交流というのは進まないような気もします。
 司会 海水学会なども利用してということですね。
 大矢 私はカナダにいたものですから塩での融雪はよく知っているのですが、やはり塩の大きい使い道の一つは、融雪用というような気がします。柏村会長がおっしゃったように、それに関する環境問題とか、そういうところはこれから海水学会の一つのテーマで出てくるかもしれません。
 司会 有難うございました。それでは最後に事務局から、一言ずつお願いします。
 橋本 今後の展開は私もちょっと気になるところですが、一つは業界での接し方として、現在オープン制になっているSIの組織に入ることです。海外メンバーというのがありまして、それに入ればたぶん案内も来る。それで出かけて行けば、ヨーロッパやオーストラリアも必ずそこ来ます。ヨーロッパのほうの組織は、13か国で現在のところ閉鎖的ですから加入することはできませんが、アメリカの方に加入するというのは一つの方法ではないかと思います。そうするとつきあいがつながっていくのではないかと思います。
 実はJTも加えてくれと言ったんですが、お前はプロデューサーではないから駄目だと言われまして、(笑)うちはプロデューサーではないけれどもディーラーだからいいじゃないかと言ったのですが、どうも仲間に入れてもらえませんでした。
 長谷川 国際的な経験を、できるだけJTの若手社員にもしてもらおうということで、郡山から九州までの塩業センター、本社、海水総研の若手社員を40名余り、応援で参加させていただきました。事前に半年くらい英語の勉強もしてもらいましたが、いろいろご苦労をかけました。ここまで盛り上がったシンポジウムで、そういう若い人に対して、国際化意識を持ってもらうチャンスを与えていただいたと思っております。本当にいろいろとお世話になりまして有難うございました。
 今回の記録等につきましても、今後の展開に使えるようにと思いまして、現在ビデオテープも編集しております。いろいろな記録類につきましては主催の財団さんのほうに全部残します。いずれ今度アクゾ社が主催します時には、細かいことを聞いて来るでしょうから、その時のためにも記録を残そうということで、現在整理をしております。
 できれば、「京都大会が契機になって、その後定期的に開かれるようになった。」といったように、今後「京都大会が」という言葉がキーワードになって、世界での交流が進展してくれれば、大変苦労のしがいがあったと思っております。
 司会 大変長時間にわたりまして、貴重なお話を本当に有難うございました。これで座談会を終了させていただきます。